月刊ライフビジョン | 論 壇

誰もが戦争の責任を逃れられない

奥井禮喜

 世界の雲行きが怪しい。取り越し苦労ならばおおいに結構である。しかし、新聞に報道される世界の政治家の在り様を見れば、とてもじゃないが、この人々に任せて安心という気持ちは湧いてこない。
 昨今、大国政治家によって進められているのは、実力行使的な世界分割の動向である。「なぜそうなのか」、「他に方法はないのか」、その結果、「なにが起こりうるのか」、「軍事力を前提した行動の危険性」などについて、根本から考えたような論調は皆無である。
 第二次世界大戦が終わって、77年目の今年、「歴史はくり返す」の大愚に突入しない保証はない。疑り深い奴だと批判されても構わない。戦争を嫌悪する1人として、怪しい雲行きにたいする考え方を述べたい。

戦争を始めるのは政治家である
 大東亜戦争を主導した人々が、「戦争を始める気はなかった」「気がつけば戦争になっていた」と語った。ちょっと待ってほしい。戦争は、晴天の霹靂(へきれき)ではない。天変地異ではない。国と国がなす仕業である。政治家と政治家がなす仕業である。ある日突然、戦争になったという、ロマンチック小説の書き出しをまねてはいけない。
 それに、この発言には、自分は戦争開始の責任がないという密やかな弁解も交じっている。もちろん、勝利した戦争であれば、発言の風向きが違ったであろう。いずこの政治家も、わが国の防衛、国民の安心・安全のために軍備を整えると語る。相手方も同じだ。あの国をやっつけるために、公然と軍備拡充するなど語る政治家はまず存在しない。
 軍備拡大は関係国間の疑心暗鬼を高めこそすれ、緊張緩和には必ず逆行する。自国の防衛のつもりでも、相手国からすれば、軍備拡充はわが身の危険性が高まると考える。いかなる修飾語を駆使しようとも、軍備拡充の行き着く先は、戦争である。しかも軍拡は、大きなおカネが必要だから、国力・民力を弱める。まことに悪循環、非理性的思考の典型である。
 敵国をやっつけるためと称して、人民から税を取る。これをリアルに考えれば、税金を取るために軍備拡充や、果ては戦争が必要になるわけだ。そもそも、政治家を突き上げて、戦争をやれと言うような人は、どこかが壊れている。他国に対する疑心暗鬼を喧伝し、好戦的雰囲気を作るのは政治家である。
 とくに、国内政治の行き詰まりを打開するために、外敵を作って、国内の不満を外敵に向けようとするのは、古くからくり返されている。いわば、危機を煽るのは、自国民を欺く政治的手品の1つである。
 およそ人々は、好戦主義者でも軍国主義者でもない。戦争を期待することもないだろう。――大東亜戦争において、1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃の報道に喜び勇んだ人々がたくさんいた。人々は、31年の満州事変から10年に及ぶ日中戦争で、日々の生活が圧迫されており、出口のない閉塞感にあったから、大勝利の戦果とともに報道されて、活路を与えられたように感じたのである。本来、性根が好戦的で軍国主義者の人は、決して多くはない。
 少数でも、真実を直視していた人は存在した。たとえば東大教授の南原繁(1889~1974)は、「人間の常識を超えておこれり日本世界とたたかふ」と、八方塞がりの悲痛な思いを詠んだ。緒戦勝利の歓呼と正反対、感情と理性の違いというにしても、あまりにも違いが大きくて噛み合わない。
 南原の常識は、多数派の日本人の非常識であった。結果として、南原の常識が非常識の間違いを証明したが、そこまでに繰り広げられた修羅場を思えば、うなだれるしかない。当時、自分が1人の生活者として、常識の民であっただろうか。非常識の1人であった可能性が高いのではないか。思えば、背筋が寒くなる。

無辜の民は存在せず
 敗戦後、だまされていたと述懐した人々が多かった。しかし、かりに全面降参でなかった場合にも、だまされていたと言うであろうか。勝利すると思わされたのであっても、戦争に強い疑問や反対論、反戦行動が極めて少なかった。
 45年8月15日、敗戦の知らせを聞いたとき、これが「解放」だとはっきり認識した人が多くはなかった。戦争のない日常から、戦争が始まって、戦争が日常になった。戦争の日常に突然ピリオドが打たれた。そして、人々は戦争のない日常へと帰っていった。開戦にしても、敗戦にしても、一時的な感情の起伏があったにせよ、あたかも天変地異と同じように奇妙な光景が浮かんでくる。
 後知恵だと批判されても、これだけは言わねばならない。はっきりしているのは、戦争をするような人間は、いかに馬鹿な存在であるか――という一語に尽きる。そこで、先人の鋭い言葉を考えてみる。
 エラスムス(1466~1536)は書き残した。――自分は戦争に賛成ではなかったが、引きずり込まれてしまった、というその仮面をはぎ取るがよい。言い逃れをかなぐり捨てるがよい。――(『平和の訴え』1517)
 この言葉は、およそ無辜の民などいないことを抉っている。生まれて以来戦争体験がない人は、なんら衝撃をうけないかもしれない。自分は無関係だと思うからだ。身辺には、さまざまの戦争ドラマがある。いずれも主人公は恰好よろしい! ――戦争は、戦争をしたことのないものにとって快い。――これもエラスムスの怒りであると、同時に、無辜の民が無知の民だという痛烈な指摘である。
 ナチの強制収容所から奇跡的に人間社会に生還した医師のフランクル(1905~1997)は、――全人類の犠牲がもう一度くり返されることについて、共犯の罪に問われたくないのであれば、みずからの命を犠牲にすることすら恐れてはならぬ。――(1946.1.28講演)と語った。

 戦争で殺したり、殺されたりするより、戦犯にならないために命を捨てろと主張する。命がけで生還した人の言葉である。平和主義者・反戦主義者として、命をかけられなければ戦犯に等しいという。非常に厳しい。なるほど、ポーズだけで覚悟なきものは共犯だと指弾されても仕方がない。
 戦争当事国の責任から逃れられる人はいない。この表現が厳しすぎるというなら、あえて、戦争(彼我の)被害の責任と言い換えてもよい。戦争の被害者は、相手からすれば加害者である。大東亜戦争開戦では、東条英機が悪玉であるが、平和の民のなかから突如東条が台頭したのではない。戦争のリーダーは、戦争の民から生まれた。これは、非常に重たい事実である。

 戦争体験を記録し、後世に伝える努力がなされている。ただし、大方は無辜の民としての被害者扱いである。これでは、戦争を根絶やしできない。エラスムスとフランクルの言葉を、それぞれの「わたし」は生きなければならない。

敗戦を解放と肝に銘じなかったツケ
 1945年8月15日は、理屈では、戦前と戦後の「断絶」を意味する。まして、王権神授説が否定されて、人民主権の民主主義に代わった。制度は戦前と戦後では間違いなく断絶している。そこで、新しい皮袋に注がれるのは、新しい酒であったろうか。もしかすると、腐臭すらする古い酒ではなかっただろうか。
 まず、戦前圧政からの「解放」だと受け止めた人が多数派ではなかった。戦争の日常から帰るべき日常は、戦前のそれではいけない、大方の人は戦前の日常へ帰ってしまったようだ。象徴的な1つの事例――勤労動員されて軍需工場で働いていた人々が、敗戦の報道を聞いた。しばし虚脱的時間を過ごした後、誰が誘うでもなく、旋盤の前へ戻って、再び作業を始めたというのである。
 いかなる事態になろうとも、衣食住が生活の日常である。まず、食べる生活を確保するのは当たり前である。とはいえ、15年にもわたった戦争の日常について、なにも顧みずに、衣食住の日常に帰るだけであれば、それは、せっかくの「解放」を手にした戦後の日常とはおおきに違う。戦後民主主義という皮袋の中身が、実は、戦前のものであった。これ、当たらずといえども遠からずだろう。
 戦時において、軍国主義のファシズムに翻弄されたとはいうものの、大方の人は国家主義と自分主義を同一化していた。戦後、大方の人は自分主義へ戻ったのであろう。本気で、騙されていたと確信するなら、再び騙されてなるものかと考えるから、つまりは、限りなく「解放」(感)へ接近したであろう。その解放感は、国家主義と自分主義を切り離すものであるから、人民主権の思想へ飛び込んでいくエネルギーとなったに違いないのであるが——
 人民のための政治をおこなってくださるお上が失墜した。人民自身による政治をおこなうためには、単に制度の変更だけではなく、1人ひとりが自身で学んで鍛えていかねばならない。しかし、当時評判のよかった『民主主義のはなし』のテキストにしても、戦争被害者としての背景が色濃くて、新しい日常の展開が十分ではなかった。(これは、もちろん後世代の知恵であるが)
 こんにち、さかんに指摘されるアパシー(政治的無関心)の影には、「泣く子と地頭には勝てぬ」以来、脈々と人々の日常を貫いてきた、「お上敬遠」のパターンが見えてしまう。どんな習慣でも、社会の底流に染みついている習慣は、容易には変わらない。選挙権を得た若い人が、選挙で誰に投票してよいのかわからないと語る。民主主義75年が育てたのは、誰に投票するべき人を教えてほしいという若い人なのであろうか。形はちがっても、そこには相変わらず「お上」的政治があるようだ。
 一方、「断絶」を意識的に認めなかった人々もいる。この人々は、日清戦争(1895)後の露・仏・独による「三国干渉」で遼東半島を還付した以来の臥薪嘗胆を、敗戦後にも当てはめたであろう。雌伏して、やがて再び起つ時期を待つ。この人々には、戦前と戦後の断絶はない。最近の国家主義・右翼的人士は、この流れにある。いまだ、「瓦全より玉砕」を信じて懐疑しないとすれば、この人士らがやがて到達する平和は、間違いなく墓場の平和であろう。

 国家主義・右翼的人士と、意識せずして、戦争の日常から戦前の日常へ帰った人々と合わせると、敗戦という画期があっても、前後の断絶を感じなかった人が多数派を占めることになる。
 雌伏派でなく、断絶を感じなかった人々は、おおむね戦争被害者意識の人である。そこには、好むと好まざるとにかかわらず、自分も戦争を遂行した1人だという自戒が薄い。国の滅亡寸前まで落ち込んでも、学習効果が出ない。――というわけで、彼ら世代のバトンを受けた戦争を知らない世代に、平和主義・反戦主義の知的枠組みが存在しないのは無理からぬことかもしれない。
 戦争を知らない世代が、戦争の危機にたいして不感症である。日本国憲法の頭の上に日米軍事同盟が鎮座している事情にも、懐疑したり、異議を申し立てる人が少ない。これが、――敗戦を「解放」として肝に銘じなかったツケ――である。
 作家の石川達三(1905~1985)が、――日本人は教養もあり、日本的性格をもっていたが、人格をもたなかった。——民主主義は、形式のみ成立して、内容空疎なものができそうである。――と書いた。敗戦の年の毎日新聞10月1日号である。いまから言わせてもらえば、懐疑心に劣る教養は単なる知識にすぎない。そんなものは、ここ一番の際、力を発揮できない。それはともかく、石川の予言は妥当であったと言えようか。

民主主義が平和の柱にならない!
 バイデン氏招待の「民主主義サミット」(昨年12月)の企画意図が危険である。バイデン氏は、「民主主義は、大いに誤った方向にある。これまで以上に民主主義は擁護者が必要だ。われわれは転換点に立っている」、「人権と民主主義の後退を許していいのか」と語った。
 人権=人間の尊厳と民主主義は一体不可分である。人権は、国境を超える存在である。つまり、人権を基盤とすれば、それぞれの国が、国の判断で人権を拘束してはならない。戦争は、参加国の人々すべての人権が、国の判断によって左右される。これは、政治体制の如何を問わず、疑いなくファシズムである。
 人権が国境を超えることは、民主主義は、国と国との戦争を否定するのである。本来、民主主義は平和主義と切り離せない概念である。
 バイデン氏の意図が、本当に人権と民主主義を守ることにあるならば、世界を2分割して、さらに対立を深化させるような企画をおこなうべきではない。それを妥当というなら、人権と民主主義の上に国家が鎮座することになる。バイデン氏の民主主義理解には大いに疑問を抱く。
 背景には、なるほど、米中関係の悪化という事実があるが、なによりもアメリカ国内の、人権・民主主義事情を見過ごせない。「戦争は交通事故みたいなもので、国内の革命(政権転覆)のほうが恐ろしい」という見方がある。バイデン氏の頭に、このような認識がないであろうか。
 トランプ氏に比べれば、バイデン氏は上等である。とはいえ、言葉使いが異なるだけで、本質的に国家主義体質であるならば、人権と民主主義を悪用するのと等しいわけで、上品だからといって、中身のペテン性においては、トランプ氏と同等、いや、欺くテクニックが巧みなだけ、下等である。
 わが国のメディアでは、このような問題意識が全く存在しない。とりわけ、新聞は民主主義を守り発展させると公言しているだけに、わたしは読者の1人として、極めて不満である。
 改めて、「誰も戦争の責任から逃れられない」ことを主張したい。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人