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「約束」としての憲法は定着したのか

奥井禮喜

 人間はいろいろな発明をしてきた。とりわけ、「共同生活=社会」の発明がなければ、他の動物と同じであったにちがいない。あまりにも当然すぎて、ふだんは社会に感謝する気持ちはない。人間は社会を離れては生活できないのだから、たまには社会のあり方を考えてみたい。

社会は約束を不可欠とする

 ミャンマーやアフガニスタンに生まれ育ったならば何ができるか、何をすべきか考えてみるが、まるで掴みどころがない。「銃口から政権が生まれる」のは事実である。しかし、銃口の側に立たないとすれば、そこから生まれる政権の正統性を認めることはできない。屈伏と納得はまったく異なる。

 古代中国には、「好鉄は釘に打たれず、好人は兵に当たらず」という言葉がある。釘は有用な品であるから、厳密にいえば妥当なたとえではないかもしれないが、破壊と殺傷を目的とする兵を好まない庶民の心根がよくわかる。日本でも、中世の農民は、自然災害よりも戦争をとことん嫌った。

 テレビドラマは、好んで封建時代の武将を描くが、戦乱の時代は、ミャンマーやアフガニスタンと極めてよく似ている。ミャンマー的サムライやアフガニスタン的サムライが、天下統一をめざして躍動しているわけだ。

 ホッブス(1588~1679)が、自然状態では、人間は万人が万人に対する闘いの状態にある。相互の約束によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことによって平和が確立されると主張した。完璧な理論とはいえなくても、人々が平和に暮らすために、「約束」が必要不可欠だという理論は妥当であろう。

 ただし、「約束」を作るためとはいえ、銃口で脅かされるのは拒否したい。「約束」をするためには、万人の1人として、対等の立場で相談にあずかりたい。

 もちろん、世界の歴史は戦乱抜きには語れない。また、世界平和を標榜しつつ、軍拡競争に余念がないのも現実である。しかし、核兵器時代に世界の平和を作るためとして軍事力を駆使すれば、いくらか生き残る人があるにしても、人々が手にするのは「墓場の平和」にすぎない。

 わが国は、アメリカの核の傘で守られているという見解があるが、守られているわけがない。敵視している国々もまた、国内の人々を守っているのではない。ひとたび核戦争が勃発すれば、お互いに壊滅するしかない。核兵器が守っているというのは錯覚で、実際は、相互に核兵器の人質である。政治家らは、膨大な精力と巨費をつぎ込んで「国を守る」と叫んでいるが、中世の牧歌的戦闘ではない。ちょっと冷静に考えれば、精神が常軌を逸していることがわかる。

 世界国家はない。人々が世界国家を志向しているわけでもないが、理屈としては、世界の平和もまた、ホッブス流を1つの足場として考えねばならない。

疎外論の卓見

 ヘーゲル(1770~1831)は、「疎外論」を提起した。精神が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者になることを疎外とした。マルクス(1818~1883)は、これを継承して、人間が自己の作り出したもの(生産物・制度)によって支配される状況を疎外である、とした。これは、非常に大切な考え方である。展開して考えてみよう。

 軍事力で他を圧倒するために武器開発に励んできた。相手も同様に軍事力を開発する。抜きつ抜かれつ、平和を構想するどころか、軍事力開発が目的化して、なおかつ、いくら突っ張っても勝利の見通しが立たない。つねに相手の軍事力が上回るのではないか。疑心暗鬼が募り、併せて憎しみも倍加する。軍事力拡大自体が明らかに平和に逆行する。

 武器開発には膨大な技術力とコストがかかる。税金で負担するだけではすまない。売らねばならぬ。そこらの武器は商品として成り立たねばならない。軍事産業が成り立つためにはなおさらだ。軍事産業の発展は、平和へ向かうどころか戦争歓迎の志向性を持つ。武器は使われない方がよいが、使われなければ不良在庫である。まして、軍事産業の隆盛は、根底的に資源の無駄遣いである。

 軍隊もまた強くあらねばならない。トップから末端まで徹底して職業能力を養わねばならない。必要なときだけの軍事組織ではいかん。人が組織され、武器が開発される。膨大な有閑階級と巨額の危ない玩具は、常に質的量的拡大へひた走る。ただ訓練だけやっているわけではない。戦争の芽を摘むとの名分によって、スパイ活動が盛んになる。国内では、人々の思想性を探ったりもする。

 アイゼンハワー(1890~1969)が大統領離任の際に、軍産複合化の危険性について警鐘を鳴らした。いまや、彼の警鐘のレベルどころの話ではない。人間が作り出した軍事機構は、すでにそれ自身の維持発展が目的化している。平和目的だとしても、現実は日々に緊張関係を拡大深化する。軍事力のデモンストレーション自体がすでに戦争前段の行為である。

 アーノルド(1822~1888)が、人間社会の無秩序を克服して健全に育てるために、教養こそが大事だと主張したのは1869年であった。教養、すなわち自分で自分を闡明して学ぶことに勤しめと主張した。それが野蛮人を脱して、人間的に成長することだ。人々はおおいに共感した。それから1世紀半、知恵ある人々はたくさんおられるが、教養ある人が多いとはいえないらしい。

 知恵ある人が軍事力による平和を主張する。軍事力強化の文脈から核兵器が生み出された。そして、核兵器は、いまや本気で使えば、人間どころか地球が吹き飛ぶ破壊力を誇っている! なんのことはない、性根の野蛮人が知恵をつけただけである。力なき正義は正義ではないという。しかし、正義なき力が正義でないのも事実である。まして、統御不能の力は悪でしかない。

日本国憲法制定当時の事情

 社会を作る1人ひとりの「約束」の大本が憲法である。日本で初めての憲法は、大日本帝国憲法である。1889年(M22)2月11日に発布された。欽定憲法で、天皇の大権、臣民の権利義務、帝国議会、司法機関などを7章76条によって規定した。欽定憲法は、天皇の意思によって制定された。主権は天皇にある。国民は、天皇の臣民である。

 日本は1945年の大東亜戦争に敗れた。12月27日に憲法学者・鈴木安蔵(1904~1983)らが憲法草案要綱を作った。その前10月、鈴木は、ポツダム宣言によって政治の性格・体制がデモクラシーに変わるのだから、憲法を改正するのが筋道だと新聞で意見を述べた。

 これに対して憲法学者・美濃部達吉(1873~1948)は、戦争に至った問題の核心は、軍閥内閣・議会機能の堕落・人々の自由の圧迫・偏見と神秘的な国体観念の主張にあり、憲法そのものの問題ではない。大日本帝国憲法を民主主義的に解釈すればよい。それにいまは、人々が衣食住に事欠いており、メシの問題の解決が先行すべきだと新聞で主張した。

 当時の政府見解も同じようなものであった。政府の憲法問題調査委員会(松本丞治)が、大日本帝国憲法の手直し案を準備していた。

 明けた46年1月1日、いわゆる天皇の人間宣言がなされ、4日には公職追放が始まる。これは無血革命といわれた。

 2月1日毎日新聞が松本試案をスクープした。3日マッカーサー司令官が憲法草案作成を指示、松本試案は13日にGHQから拒否され、同時にGHQ草案が日本側に手交された。この内容は今日の日本国憲法を形作るものである。最先端のデモクラシーであり、主権在民である。当然ながら政府は驚天動地であった。

 3月6日に憲法改正草案要綱として発表されるや、世論は全面的に歓迎した。4月17日に日本国憲法草案として発表、6月25日からの議会審議を経て11月3日に日本国憲法が公布された。(施行は47年5月3日である)

 草案が発表された翌5月12日、15日、19日には、メシを食わせろの食糧メーデーで25万人が大デモンストレーションをおこなった。「憲法よりメシ」という意見もあったが、結果は「憲法もメシも」であり、上等であった。

 美濃部は、大日本帝国憲法発布の年に16歳、以来憲法学の大家となった。天皇機関説事件で自宅に弾丸をぶち込まれたこともあり、デモクラシーに対する期待がなかったとは思えない。当然、大日本帝国憲法に寄せる愛着もある。美濃部は、同憲法における天皇は大権を持っているが、「君臨すれども統治せず」である。憲法は、日本国民(臣民)の約束としての内容を持つ。簡単に変えたくない。天皇の名において傍若無人、恣意的統治をなしたのは、一部の連中であって、憲法ではないという理解であった。

 美濃部は、「民主制と君主制は両立しないが、政治的には両立はありうる」とも主張した。憲法学者にしてはずいぶんやわらかい解釈である。後世代のわたしは美濃部の気持ちは理解できるが、感性的だというしかない。

 鈴木らと憲法草案を検討していた社会思想家・高野岩三郎(1871~1949)は、45年12月28日に、「共和制」憲法私案をメンバーに提示した。日本がデモクラシーで再出発しても、将来、戦前天皇制への回帰が起こる危惧がある。この際、きっぱりと天皇制と縁を切るべしという主張である。しかし、メンバーの合意が得られず提案には至らなかった。

 美濃部と高野は同時代を生きて、去った。2人の主張は対極である。高野岩三郎は、労働組合期成会を作り善戦健闘した高野房太郎(1869~1904)の弟であり、自身も労働運動の推進者として活動した。後知恵で考えれば、高野の先見性が著しく輝いている。

日本国憲法による革命

 美濃部の弟子の宮沢俊義(1879~1976)は、敗戦直後は師匠と同じく憲法改正不要論に立っていたが、敗戦翌年の3月ごろには改正論に立った。

 宮沢には『転回期の政治』(1936)という著作がある。美濃部が天皇機関説攻撃をされたのが35年2月、美濃部の後を継いだ宮沢は極めて不穏な立場におかれていた。そんな時期に書かれた同書は、憲法学の立場から、欧州におけるデモクラシーとオートクラシー(専制政治)の対立と、デモクラシーがオートクラシーへ転回する事態を分析したものである。少し要約すると――

 デモクラシーは、言論・科学・信仰の「自由」がなければならない。「自由」(リベラリズム)は本来、法からの自由の意義である。つまり真の自由は法の外にあるものだが、リベラリズムが法の中に入ってきたのがデモクラシーである。オートクラシーは法への絶対服従である。

 表現を変えれば、リベラリズムの根源は個人主義である。オートクラシーの根源は国家主義である。個人主義と国家主義が法を介して妥協するのがデモクラシーである。だから、議会政治が絶対的に確立しなければデモクラシーは存在できない。(昨今、自民党政治が議会政治を尊重しないのを批判する理由だ)

 デモクラシーを封じ込める手玉が、民族である。ナチスが、情緒的に民族意識を煽って、瞬く間にオートクラシーへ突き進んだ。日本でも、満州事変(1931)以降、情緒的民族主義が押し出された。議会で冷静に事変について議論するような気風は出番がなかった。

 同書の前書きでは、「わたしは、何もおしつけず、何も提案しない。わたしは、ただ解き示す」と記してある。憲法学者が学問という領域において、客観的に解き示すだけですよ、と書いてある。満州事変からますます好戦熱が高まり、翌37年には日中戦争が開始する。国家主義思想全盛である。欧州について分析するとはいえ、すでに美濃部後継として睨まれている中での著作刊行であることを思えば、宮沢の時勢に対する精一杯の抵抗の書であった。いま読むと、淡々と書かれてあるが、そこにはデモクラシーに対する烈烈たる思いが込められている。

 明治は、憲法が存在しない時代から憲法の時代になった。大日本帝国憲法は「不磨の聖典」ともいわれたが、憲法発布半世紀である。デモクラシー先進国は、革命によってデモクラシーを生み、育ててきた。日本の戦争は革命ではない。敗戦したが、大日本帝国憲法を「約束」としてやってきた。「約束」は極めて重たい。それを変えるには、周到に準備せねばならない。これが宮沢の悩みであった。

 そして宮澤は、戦後日本は「憲法による革命」だという結論に達した。世間ではポツダム宣言を受諾して、天皇主権から主権在民への反転を遂げたのだから、8月革命だともいわれていた。さらに宮沢は、敗戦後日本は「憲法による革命」を推進するべきだと踏み込んだのである。

 明治になるまで、わが国には人権の思想はなかった。天賦人権説が入ってきたが、西洋ルネサンス流の「尊厳の原理」が、容易に理解され拡散するものではない。大正デモクラシーといわれる時代があったが、人権論は定着しなかった。敗戦後の日本国憲法は、かつて日本人が体験しないルネサンス、革命の集大成である。それを思えば、デモクラシーを定着・育成するためには、「憲法による革命」の気構えで歩まねばならない。

 「主権在民」は、天皇の国体が護持されなかったのである。当時の政治家たちは、「主権在民」に頭がぐらぐらしたという。一般の人々は格別頭痛を体験しなかったらしい。いわゆる戦前からの保守人士も、国体復活論を叫んで走り回るような事態は発生しなかった。大日本帝国憲法から日本国憲法への転換は、コペルニクス的転回である。その深い意味を理解せねばならない。

 象徴天皇というが、敗戦までの天皇も「君臨すれども統治せず」だから、主たる役割は象徴であった。ずばりいうならば、天皇制の歴史とは、天皇の利用の歴史である。もちろん、一般の人々が利用したのではない。人々を統治するために、天皇のご威光を笠に着て大活躍した人々がいたわけだ。

 明治維新で討幕派が天皇を担いだ。尊王攘夷である。尊王攘夷のコピーの威力は攘夷にこそあった。天皇は、下級武士連が打ち立てた新体制を推進するための柱となった。すなわち、新政府の権力権威に対して、「他の力」が結集しないように構えた防壁であった。

 そもそも現世に、地位や血統によって権威が神聖化されるような力を持つ人間は存在しない。これは、信じる信じない以前の話である。だから、デモクラシーと天皇制は似つかわしくない。「主権在民」という言葉は、決してお手軽なコピーではない。宮沢が「憲法による革命」に思い至ったのは、大変な発見である。

 そこで日本国憲法は、人々によっていかに取り扱われたか。その一端をみよう。仏文学者・桑原武夫(1904~1988)は、1954年、ルソー『社会契約論』の刊行に際して、――中江兆民が『民約訳解』(1882)によって、『社会契約論』を紹介し、自由民権運動の精神となったが、十分に根を張らなかった。戦後、「主権在民」が一時流行したが、その真意は覚えぬ前に忘れられかけている――と前書きした。憲法施行から7年後であった。

結び

 1945年8月15日の玉音放送から始まった民主主義革命は、わが国有史以来の変革である。社会を作る人々の「約束」が日本国憲法にまとめられた。

 大日本帝国憲法は不磨の大典とされて、権力・権威の源泉を問うことすらできなかった。天皇という大権から、すべてが出てくるだけである。議会は、国民の政治的結合の役割を果たせなかった。権力・権威にひたすら従えというわけだ。

 大方の人々は、大日本帝国憲法発布の際、書かれている内容を読みもせず、ひたすらありがたがって大商人たちが提供する祝い酒に酔いつぶれた。

 なるほど、日本国憲法はGHQの強力な後押しがなければ誕生しなかったであろう。しかし、今回の憲法の主権者は天皇ではなく、1人ひとりである。誇り高い1人の個人として、観衆的日和見主義を通すべきではあるまい。

 世界の有史以来、人々は、「いかなる悪しき秩序も、無秩序には優る」という知恵を無意識であっても身に着けている。これが、権力・権威の正統性を問うことなく、日々の暮らしが無事息災であればよろしいという、政治的には奴隷的精神を生み出す根源である。「よきに計らえ」というのは絶対権力者が口にする言葉であって、誇り高い庶民の言葉ではない。

 数人のコミュニティで、各人が活動に参画するならば、権力・権威が発生する余地はない。これが、デモクラシーの究極(原理)の姿である。選挙の目的は、議会をいかなる顔ぶれにするかを決めるだけでしかない。選挙で多数を制した政党が好き放題してよいのではない。

 だから、議会審議は公開されなければならないし、人々は議会を取り巻いてぼんやり眺めているだけではなく、議会審議を「わたしの見解」で吟味しなければならない。これが、「主権在民」の意義である。

 憲法は、わたしと他者を結びつける「約束」である。政治的無関心という言葉が死語になるような「わたし」をめざしたい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人