月刊ライフビジョン | 論 壇

ミル『自由論』から考える

奥井禮喜
19世紀欧州の新思潮

 ジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)の主著『ON LIBERTY 自由論』が発表されたのは1859年である。先見性・見識の高い内容で、今日の混乱する世界を考えるために、きわめて有益なテキストである。まだ、お読みでなければ是非とも思索の友にしていただきたい。

 欧州大陸では、ナポレオン(1769~1821)が、フランス革命の混沌期において、1799年11月9日クーデター(ブリュメール18日)で軍事独裁を開始した。ミルが生まれた1806年に、ナポレオンはプロイセンを撃破して欧州に覇権を成立するかに見えた。しかし、12年モスクワ遠征に失敗し、プロイセン・ロシア・オーストリア連合軍に敗れ、14年エルバ島に流された。翌年脱出してパリに戻ったが、ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流され、その奔流のような生涯を終えた。

 ナポレオンは、フランス革命が提起したデモクラシーの、いわば歴史的反動として登場した。結果的に、19世紀欧州の新しい思潮を後押ししたといえる。

 ジョンの父親、ジェームズ・ミル(1773~1836)は、著名な歴史家・哲学者・経済学者で、ジャーナリズムでも大活躍した。

 ジェームズは、――宗教改革(1517)が、思想の自由の立場から聖職者の圧制に対して挑んだ革命だ――という見識を持つ人であった。宗教改革はルターによってなされる以前、世紀を超えて20回は鎮圧されている。ジェームズは、歴史を研究し、人間社会においては、あらゆる意見に平等の自由を認めることが大事であり、これが社会に必要な「寛容の精神」だと考えた。

 現代世界にもっとも欠落しているのが「寛容の精神」ではなかろうか。ただし、日本人においては、まあまあ主義、なあなあ主義が以前から指摘されている。他人を許すというような高飛車でもなく、矛盾を放置した態度でもなく、社会的紐帯としての「寛容」をどう考えるか。われわれのテーマである。

最大多数の最大不幸!

 ジョン・スチュアート・ミルの『AUTOBIOGRAPHY 自伝』(1873 ラスキによって校訂・発表)を読むと、父ジェームズは、ジョンが3歳のころから、学問の道へと誘った。

 ソクラテスを信奉するジェームズは、ジョンにただ知識を教えるのではなく、考えて理解するように、逍遥しつつ対話を重ねて、本人の学ぶ喜びを引き出すように相当な苦心をした。「教えることは可能だが、学ぶのは本人次第」である。ジェームズの実践教育は今日において、さらに必要不可欠ではないだろうか。

 学びの体験を重ねてミルは、他者の意見を変えさせるにはエビデンス(確たる根拠)が必要だと体得する。本当に本当か、これ以上考える余地はないか――デカルト的明晰・判明に共通する考え方を学びつつ習得した。

 仲間との読書会では、1つの論点について数週間論議を続けたこともある。全体を理解するまでは完全に理解していないのと同じだ。思索習慣とは、自分の思想を消化し成熟させることだという。

 そこで、エビデンスとは何か。もちろん具体的事実であるが、大きく見れば、人が自身にとって本当に有益だと考えることである。とすれば、人間学(anthropology)であり、「人間とは何か」、「いかに生きるべきか」について思索を深めなければならない。知識だけではなく、真の教養をめざしたのである。

 当時、ジェレミイ・ベンサム(1748~1832)の功利主義の哲学が全盛であった。ベンサムは、――人間の行動は利己心の発動であり、苦痛を避け快楽を求める――が、各人における自由放任の利己心はお互いの間で衝突するにちがいない。そこで、――真の利己心は、すべての人が相互間の調和を求めるような利己である――として、予定調和的利己心を語った。

 利己心の衝突を防ぐために国家や法律の機能が必要である。国家や法律は、個人からすれば自由を侵害するから悪である。しかし、利己心の暴走を防がねばならないから必要である。人々が約束した社会という考えが前提にある。これが、ベンサム的「最大多数の最大幸福」説である。

 注意しておくが、「最大多数の最大幸福」と多数決はまったく異なる。無知蒙昧の連中が多数決をしても、それは最大多数の最大幸福ではない。最大不幸である。ベンサムがいう最大多数の最大幸福は、方法論としての多数決を意味しない。彼は、社会の目的を主張しているのである。永田町的多数決は決してベンサム流ではないことを忘れないようにしよう。

 前述のように、ジェームズは、「あらゆる意見に平等を求める」=「寛容の精神」を主張した。換言すれば、「対等の精神」である。

 やがてロック(ジョン)は、人が有益と考えるエビデンスの根拠を、「人と共感する喜び」だと気づいた。共感が拡大すれば人類全体のためになる。目的として正しいし、自分がそれに向かって思索を重ねるのは愉快である。「人と共感する喜び」こそが偉大な幸福の源である。

 これは、理屈では容易に到達する。その気になって実践し続けるのは困難であるが、ロックは、――静かな黙想のなかに永久の幸福がある――ことに気づいた。コロナで黙食なる珍妙な言葉が登場したが、せっかくのコロナ騒動だから、われわれは「黙想」をこそ身につけねばなるまい。黙食は、珍ニューノーマルである。黙想は人間が人間であることの証明であり、すべての行動の基盤である。日本の歴史に、果たして黙想の時期があっただろうか。

権力なるもの

 ミルの文章に貫流するのは「(あまねく)人と共感する喜び」である。社会というものは、個人が集まって作っている。自分が社会を作っているのだと考えて行動する人が多数であれば、当然、社会は活力を発揮する。これが社会・政治論の出発点でありたい。現代社会・政治の混乱は、「個人が集まって社会を作ってきた」歴史を無視しているからではなかろうか。

 デモクラシー(democracy)の語源は、ギリシャ語の人民(demos)と権力(kratia)が合体したものである。権力は人民に由来し、権力を人民が行使するところの政治形態である。言い換えれば、人々の手に権力がある社会の人々は自由である。社会において、人々が自由を感じられる(逆にいえば拘束感がない)ほどデモクラシーが成熟している。

 ミル『自由論』は、――社会が個人に対して正当に行使しうる権力の本質と諸限界――を主題として展開される。

 政治の歴史を見れば、自由という言葉は、政治的支配者の圧制に対する擁護の立場である。市民的自由を確立するために、先人は大変な努力を重ねた。

 憲法が権力を抑制するという考え方は、多数者による少数者に対する暴虐を警戒するからである。

 安倍氏は「憲法が権力を抑制するというのは過去の話だ」と語ったが、間違いである。現代社会は、名目的(形式的)デモクラシーによって、民主主義的独裁が至る所で見られる。(日本も然り)無知蒙昧の連中の力で、最大多数の最大不幸を生産していることがわかっていない。

 考え方として、――ただ1人が反対の意見を抱いているとしても、人類がその1人を沈黙させることは不当である――というのが、ミルの思想である。

 たとえば宗教は、道徳的感情を形成する強力な要素であるが、ほとんど常に人間の行為のあらゆる部分に対して統制の手を延ばした。もちろん統制の手を延ばすのは人間である。宗教をバックとして自分の見解を押し付ける。

 ここでは宗教を引き合いにしているが、そもそも人間は自分自身の意見と趣味(判断基準)を他人に押し付けやすい。個人の意見が単純に権力化すれば、周囲が大いに損害を被る。人間には、権力を持たせない以外に抑制の方法はない。しかも、現代においても権力はつねに増大する傾向にある。

 ついでながら、2001年9.11の3日後、米国議会は、テロに関係した国家・組織・人物に対して、大統領が適切な有効力を行使することを認める裁決をした。これは戦争に対する大統領への白紙委任であるとして、1人の下院議員が反対投票をした。下院での採決は賛成420対反対1票であった。当時は国賊扱いされたが、いまや彼女の見識が見直されている。白か黒かではない。人間のおこないには誤謬がつきものである。あの時、立ち止まって熟慮していれば、という反省が出ている。もし、アフガニスタン戦争をしなければ、当然ながら今日の混乱はなかった。

普遍的錯覚

 ミルは、社会を構成する人々において、普遍的錯覚にとらわれていると指摘する。普遍的錯覚とは習慣である。周囲に付和雷同するとか、事大主義の傾向が強い人は少なくない。世間常識、社会通念と見られているものは、時に見上げた表情を見せることもあるが、見下げたくなることのほうが多い。個人が群集に隠れて無恥をさらしやすい。

 現代日本の政治で考えてみると、――政治家の大方は天下国家を論じ、愛国者を自称する。大したものである。しかし、愛国者として無償の行為に没入するような政治家を発見するのが難しいのも事実である。

 投票によって政治家を選ぶが、選ばれた人が権力亡者になったり、堕落する姿を見るのは日常茶飯事である。選ばれた人にも選ぶ人にも、選ばれたのだから優れているという誤解がある。しかし、優れているから選ばれたのかどうかは疑問である。仕事ぶりを四六時中眺めることが可能であれば、選ばれても大方は普通の人と変わらないことが直ぐにわかるだろう。

 自分や(自分と同調する)人々の、意見の無謬性を前提してはならない。かつて宗教が絶対無謬性として君臨した。少数の人が真理を提唱して迫害された事例は世界の歴史上に溢れている。また今日、イスラム原理主義を恐れ、忌み嫌うけれども、それは同時代を生きてはいるが、歴史的時間が異なっているともいえる。力で決着することは不可能である。

 この間、菅氏の評判が落ちた理由として、他者の意見を聞かないとか、楽観的すぎると指摘される。菅氏が首相ではなく、普通のオッサンしているのであれば、「アホな奴だ」で済む。しかし、たまたま権力の頂点にあるために、周辺は担がねばならない。たとえば官僚が束になって批判すれば本人は消え入るしかない。楽観的なのは、「こうありたい」ということと、「こうすべきだ」ということを混同しているからである。それもまた、権力の権威(魔力)に本人がたぶらかされているからである。

 菅氏が絶え間なく抽象的な言葉を発しているのは、遠謀深慮があるからではない。抽象的な言葉は、実際政治においては、1つひとつ具体的に解明されるべきだが、会見や議会答弁ではそれがなされない。おそらく、本人自身が抽象的な言葉でしか語れないのである。

 政治は本来、重要な実際問題において、対立するA説とB説を十分に論じ合い、いずれも絶対的優位でなければ、C説を導くことである。ところが、安倍・菅政治を通じては、まったくこのような見識がない。これは、デモクラシーの根本が理解されていないのである。

思考の自由

 ミルによる思考の自由は、――人が自分で到達できるかぎりの精神的高度に到達すること――である。自分で自分を啓蒙せねばならない。

 そのためには、自分自身の意見の根拠を学んで知らねばならない。普遍的錯覚にあったのでは、思考の自由ではない。自由に考えた結果としての意見でないとすれば、それは教養とはいえないし、AI化した人間と同じである。世間的慣習に漂うことは、自分の精神が自由ではないからだ。

 自由の名に値する自由とは何か。ミルは、――他人の幸福を奪わず、他人が幸福になろうとする努力を阻害しない――ことだとする。それが前提であれば、自分の幸福は奪われず、幸福になろうとする努力も阻害されない。これは、前述の「寛容の精神」の異なる表現である。

 ミルは、――仮に全てが平等であっても、全部が奴隷である孤立した個人の集合の上に、中央政府の長が絶対の支配権を持つ――ような政治ではダメであるから、このような事態を防がねばならないと主張する。これは、そのまま現代政治を照射している。

 現代は、政治に対する要求が小さくはない。行政・官僚機構の行動が不十分で、至る所で人々の不満が噴出している。ところで、もし行政・官僚機構が有能であれば、不満は出なくなるだろう。これは、表現を変えれば官僚国家であり、官僚によって支配される社会である。人々は、もっと(自分を)上手に管理してくれと請求しているのと同じかもしれない。

 ミルの自由論の主張は、個人が参加して社会を作っているのだから、その社会の価値は個人の力の総和によって決まる。だから、――自由な国民は、誰でも政府を作ることができる――ような国民だと指摘する。

 敗戦でデモクラシーが天下った日本では、このような考え方が浸透しているとは思えない。これが欧米流のデモクラシーの根本だというべきだろう。ミルは、「国家の価値は個人の価値によって決まる」と主張する。日本人が政治的成長を進めていくためには、このミルの言葉を拳拳服膺せねばならない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人