月刊ライフビジョン | 論 壇

働くみなさん、君たちは自由ですか!?

奥井禮喜

 公民権運動 

 いまから54年前の1963年8月28日(水)、アメリカで世界中に大きな反響を呼んだ一大デモンストレーションがおこなわれた。

 あらゆる階層の人々25万人が「ワシントン大行進」行動の1つとして、ワシントンDC(正式にはDistrict of Columbia)にあるリンカーン記念堂の敷地に集まった。堂内正面にアメリカ第16代大統領エブラハム・リンカーン(在職1861~65 1809~65)の坐像がある。

 行進の参加者は――すべての人々が公民権を保障され、皮膚の色や出自に関係なく自由と平等に扱われる――ように要求した。

 人々(黒人だけではない)が人種差別に抗議し、憲法の保障する諸権利の保護を求めて始めた公民権運動(Civil Rights Movement)が1960年代に高揚し、その最高潮の行動の最後に演説したのが、公民権運動の指導者・牧師のマーチン・ルーサー・キングJr.(1929~1968)である。

歴史的演説

 キングJr.牧師の演説は聞く者の心を揺さぶった。

 ――奴隷解放宣言は1863年1月1日(署名1862.9.22)に発されたが、100年を経ても黒人は依然として自由ではない。自由の約束手形を不渡りにするな。正義の銀行が破産していると思いたくない。

 ——the Negro still is not free. 黒人は依然として自由ではない。

 Now is the time to make real the promises of democracy. いまこそ民主主義の約束を現実にするときだ。

 We cannot walk alone. わたしたちは1人では歩めない。

 ——we must make the pledge that we shall always march ahead. わたしたちは前進あるのみだということを誓わなければならない。

 We cannot turn back. わたしたちは後戻りできない。

 I have a dream——私には夢がある。それは、人間が平等に作られていることが自明の真実だという、この国の信条を実現させる夢であった。

 この「わたしには夢がある」という言葉はとりわけ人々に強く響いた。

 Free at last! Free at last!

 Thank God Almighty, we are free at last!

「ついに自由になった——全能の神に感謝する、わたしたちはついに自由になったのだ」という言葉で演説が締めくくられた。

 演説を拾い読みするだけで、ゾクゾクするような名演説である。

 その年4月、工業高校を卒業して、わたしは三菱電機の工場(兵庫県尼崎市)で働いていた。キングJr.牧師が演説した日(日本時間29日)は、工場の屋上で富士山気象レーダーに必要なデータを収集する実験の作業に携わっていた。猛烈に暑かった。実験機器に触れるとやけどしそうであった。キング牧師の演説は新聞で知ったが、まだ、わが国のデモクラシーと重ねて考えるオツム状態ではなかった。

 もちろん、それなりに「すごいパワーだ!」くらいの感じ方はした。後知恵でいうならば、このイベントは世界中のデモクラットを元気づけ、さまざまな分野でのデモクラシー意識の高揚や、やがてアメリカに対して「ベトナム戦争反対運動」を興し、世界平和を希う人々の国際的連帯へと続いていく。

 それから半世紀過ぎて——改めてキング牧師の演説を読むと、なにやら湧いてくるものがある。

「Negro=labor」と置いてみたくなる。わたしの青年時代よりも、今日の労働者は自由を謳歌しておられようか? もしかして、見えざるケイジ(cage)のなかで、使うべき翼を使うことを忘れて、よちよち歩く小鳥みたいではないのか。失礼ながら。と、考えると「1人では歩めない」「前進あるのみ」「後戻りできない(してはならない)」、という言葉が身につまされる。いま、働く皆さまは「わたしたちは夢がある」と断言できるのであろうか。

人間の尊厳

 アメリカの公民権運動はひょんなことから始まった。1955年12月1日、黒人ローザ・パークス夫人がモントゴメリー市営バスの座席に座っていた。運転手が白人に座席を譲れというが、彼女は拒否した。そして逮捕された。

 これが公民権運動に火をつけた。56年11月13日、連邦最高裁は無罪判決を出した。理由を聞かれた彼女は「人間としての尊厳の問題です」と答えた。

 公民権=市民権(Civil Rights)ではなく、人間の尊厳=Human Rightsである。わが国は敗戦まで、徹底的に封建制度を引きずっていた。敗戦後、デモクラシーを手にした。なるほど、一応Civil Rightsの意識にはなったかもしれないが、果たしてHuman Rightsに気づいたのであろうか。

 おそらく、大方は気づかなかったであろう。制度を制度として受け入れるだけではなく、制度の本質を押さえなければ本物にならない。「人間の尊厳」をロマンチックに飲み込んでいるだけではダメだ。そのまま今日にまで辿りついたのである。

賃上げとHuman Rights

 かつて総評全盛時代を作った議長・太田薫(1912~1998)は、「ステーキの食える労働者になろう」とか「クソのついた1,000円札でも1,000円札だ」と語った。太田氏の痛快な語り口が労働者の心をとらえた時代があったのは事実である。ただし、忘れてならないのは、ステーキが食えても、賃上げしても、「人間の尊厳」を獲得するのではないのである。

 「賃金奴隷になるな」という言葉があった。資本主義において、労働者はいずれかの資本に依拠して生計を維持しなければならないから、厳しくいえば労働者は奴隷である。そこで、賃上げによって、賃金を自己決定することによってその頸木を断つというように大方は考えた。

 しかし、本当は「人間の尊厳」を常に意識するべしと考えたほうがよかった。ローマ時代の剣闘士は貴族以上の高給を獲得する者が少なくなかったが、依然として奴隷であった。勤め人は、刀を手帳に持ちかえた武士だといった人がいたがナンセンスである。

 デモクラシー制度においても、政府は国家権力として人々の前に登場する。政府・財界主導のワーク・ライフ・バランス論はオタメゴカシである。政府の主導する働き方改革なるものは、いったい労働事情の「なにを」改革してのけるのであろうか。

 労働組合が、かつてのように(表立って)アカ呼ばわりされなくなったのは上等である。しかし、それが単に企業の発展を阻害しないという枠組みに支配された労使協調に止まるのであれば、なにか最も大事なことを見失っているのではなかろうか。お互いに考えてみたい。

 労働時間問題が1日8時間・週40時間という地点から出発していない。企業活動を支えるための論理に囲い込まれている。わたしは、働く人々の人権問題の根幹が崩壊しつつあると思う。過労死が世界的話題になり、自殺者が出るような事情は、すでに「人間の尊厳」の精神が存在していないと考えなければならない。社会を担う働く人々全体が差別されているのである。

 働く人々みんなが全体として同じ境遇にある。自分はみんなと同じだからとて、安心はできない。みんなが差別されているのであれば、自分もまた差別されているのである。働き方において、健康がキーワードになるような働き方は、立派に! 差別されているのである。

 そして、「いつ」「どこから」「なぜ」このような事情になったのかと考えてみると、皮肉にも、春闘全盛によって、それなりに生活改善が進んだ結果、敗戦直後のデモクラシーへの目標観を喪失させてしまった。わたしの現役時代(1963~1982)、とりわけ組合関係者には、柔軟な哲学的思考が求められていたのであるが、勢いに任せた活動ばかりやっていたと反省せざるをえない。

そろそろ新規まき直しと行こう

 組合の力は、組合員の力の総和である。だから、組合員1人ひとりが、生きるために働くのであり、「人間の尊厳」を以て働くことが当たり前だという自覚と認識を確立しなければならない。仮に、卓抜した労働条件下に働いていても、「働かせていただく」意識に嵌っているのであれば、それは僥倖に過ぎない。主体的に「働く」意識を自覚している人こそが労働者の名前にふさわしい。

 ――労働者は、自分に必要なものを誰かにいただくのではなくて、自分に必要なものを作り出す存在である――

 日本国憲法においては、労働基本権が定められている。

 まず、憲法第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(生存権原理)と書いてある。

 これが、憲法第27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」(勤労権)と、第28条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」の2つに展開されている。

 第28条は「労働三権」、つまり、団結権・団体交渉権・団体行動権を保障している。

 実際、敗戦まで労働者は低賃金・長時間労働など極悪な労働条件下で働かされた。どこにでも働く場があるわけではないから、ひたすら耐えるしかなかった。企業一家主義という言葉に郷愁を感じる人がまだいるかもしれないが、それは士農工商において、「農民は国の宝」などと持ち上げられ、その本質が「生かさぬよう、殺さぬよう」であったのを無視するのと等しい。

 民主主義の法は、人を個人としてとらえ、封建主義から解放した。にもかかわらず雇用者・被雇用者関係では被雇用者が弱いから労働基本権を定めた。

 しかし、経営側は、組合活動を直接間接に妨害したり、労働基準法の骨抜きを執拗に継続して目論んでいる。とりわけ、最近は政財界による労働基準法改悪の動きが目立っている。

 なるほど、戦後民主主義の時代になり、労働者の権利が守られていることになっているが、低賃金・長時間労働問題が過去の話になったとは到底いえない。

 権利というものは、それを毅然として守る意思がなければ、いつでも絵に描いた餅になる。労働基本権を支える力が弱くなれば、法律などは直ちに非リアルになり空文化する。法律があることと、権利が守られることは別物である。

 労働基本権をリアルなものにするためには、弛まざる組合運動を必要とする。組合組織があっても活動が存在しなければ組織がないのと同じだ。

 民主主義になって70年以上過ぎたが、時間の経過が必然的に法律を浸透させるのではない。なんとなれば、労使関係が発生するところの「資本と労働」の関係は不変であり、労働基準法に関して、両者はゼロサム的力関係にある。引けば押し込まれるし、力が拮抗すれば現状維持なのである。

 連合は、「労働運動を大きく強く」するために作った組織である。そして、連合組織は、傘下全組合の組合員の力の総和であり、その運動が巻き起こるときに、政財界の思惑と正面から対峙できるのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人