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天皇制と日本史【朝河貫一から学ぶ】――その今日的意義

奥井禮喜

朝河選手から矢吹選手へ歴史のバトンタッチ

 矢吹晋・横浜市立大学名誉教授の最新刊『天皇制と日本史 朝河貫一から学ぶ』(集広舎)を読んで考えたことを書きたい。

 矢吹氏は1938年生、専門は「現代中国」で、中国ウォッチャーの第一人者である。日本の歴史は、2千年にわたる中国との結びつきを抜きには考えられない。国と国との関係は、両国の歴史を無視しては構築できない。そこから、尊敬する郷土の先輩でもある朝河氏の「日本史」とドッキングする。

 『天皇制と日本史』は、歴史学者の朝河貫一博士・米エール大学名誉教授の研究態度・著作・活動を高く評価、共感・共鳴する矢吹氏の情熱がほとばしる渾身の力作だ。矢吹氏の情熱を燃え立たせるのは、学者・研究者としての朝河氏に対する深い敬愛の気持ちである。筆者は、先達の志を受け継いで、――学問世界のみならず、人々が歴史を作って行くことの意味を理解して前進するように――との、矢吹氏の壮大な歴史観・人生観を感じる。

 同書の流れは、朝河氏の歴史学を研究し、その学問的業績や国際的活動を紹介するにとどまらない。さらに、矢吹氏の研究・活動領域を通して、時空を超えて発展的に展開させる。歴史という無限のリレーにおいて、朝河選手から矢吹選手にバトンが手渡された。筆者の率直な感想である。

 朝河貫一氏の簡単な紹介

 朝河貫一氏(1873~1948)は、福島県生まれ。1892年(現)福島県立安積高等学校を最優秀の成績で卒業、95年(現)早稲田大学を卒業して渡米、99年ダートマス大学を卒業、1902年エール大学博士号取得。学位論文は『大化改新の研究』(英文)である。04年『日露衝突』(英文)を米英で刊行、講演活動も重ねて、大きな反響を呼んだ。ポーツマスにおける日露交渉では、日本側オブザーバーとして参加。日露講和会議の影の功労者である。時に31歳。

 07年からエール大学図書館の東アジアコレクション部長を兼任、40年間研究図書の充実に貢献した。15年大隈重信首相に膠州湾を中国に還付するよう忠告した。20年日本のシベリア出兵などについて厳しく批判した。

 27年エール大学歴史学助教授、29年『入来文書』が完成し、エール大学・オックスフォード大学より刊行、日欧封建制の比較研究に大きな貢献をする。30年准教授、37年歴史学教授に昇進した。

 32年満州事変に対する米国民の非難を大久保利武(利通3男 1865~1943)に伝え、33年徳富蘇峰(1863~1957)に、国家主義思想の危険性について忠告した。蘇峰は徹底的に帝国主義・軍国主義の鼓吹者として活動した。朝河氏はその危険性を深く懸念しただろうが、蘇峰は大東亜戦争では神がかり的言論活動で人々を煽った。

 さらに39年日本の東亜新秩序について、40年日本軍の中国での暴虐行為について国内識者へ忠告する。

 41年大東亜戦争が開始するが、エール大学総長が朝河氏の自由を保障、FBIも同様の方針をとった。学者は研究が本分であるが、日米開戦に際して、戦火を回避するために尽力した。止むに止まれぬ思いであったに違いない。48年バーモント州の自宅で逝去。

 朝河氏は、近代日本の歴史学の先達である。活動の舞台が米国を足場として世界に向けられていて、論文は英語で発表された。単身独自の主張を展開したので、日本国内での知名度が低かったとも考えられるが、今日に至っても、朝河氏の学問の評価が高くないのは奇妙である。

 矢吹氏は、――(朝河氏は)敗戦までは皇国史観全盛で黙殺され、戦後は皇国史観に対する反動と唯物史観全盛で歪曲された。いずれの時代においても、大勢は学問的態度や知見を欠いていたというしかない。学問に対する真剣真摯の不足が朝河史観の無視・軽視を生んだ――と厳しく批判する。

 筆者が、朝河氏の生き方から感ずるのは、学問と人格の発達は不可分であり、学ぶことは国境を超える。人間の理想を無視した学問はあり得ない。日本と日本人を愛することは人後に落ちないが、ひいきの引き倒しであってはならない。国際人としての日本人たらねばならない。それが本当の愛国心である。

 もう1つ加えれば、人間は環境に存在するが、環境に流されるのではなく、主体性をもって生き抜かねばならない。この考え方が、朝河氏の天皇制理解のバックボーンである。それは、そのまま今日の日本的事情を読み解く鍵にもなる。

 本書の構成

 朝河氏の研究内容やその評価は本書に詳しい。各章立ての目次を記しておく。

 序 章 日本史における天皇制

 第1章 「大化改新」は天皇による革命である

 第2章 日本史の封建制は頼朝に始まる

 第3章 ジェフリー・P・マスの二重政体論が見落としたもの――米国日本史学の陥穽

 第4章 ペリーの白旗騒動は対米従属の原点である

 第5章 明治維新を経て武士道は国民の道徳に成長した

 第6章 沖縄のナワを解く――サンフランシスコ講和から沖縄不返還協定まで

 第7章 日中誤解は「メイワク」に始まる――田中訪中から中後国封じ込め論の復活まで

 補 章 「黥面分身」を九州に追放した白鳥庫吉帝国主義史観――笠井新也の邪馬台国論を再評価する

 序章から第3章までは、朝河史学の骨格や成果(内外歴史研究者の評価も併せて)について、矢吹氏の研究成果が記述される。

 第4章から第7章は、朝河史学を継いで、矢吹氏による日米中関係の歴史が記述される。現代の日米中関係を考える上で、きわめて有益である。目下のメディア報道にのみ馴れている人にとっては、非常に刺激的でもあろう。

 (少し横道に入るが)自分の知識と比較しながらじっくりお読みいただくならば、メディア報道のあり方にも気づくはずである。たとえば、

 トランプ登場以来の米国事情は記憶に新しい。いまも米国ではフェイク(fake)が「もう1つの真実」という仮面を着けて市民権を得ている。事実ではなく嘘であっても、ニュースの受け手が支配されている。受け手の想像力・意志が本能的! に反応してしまう。希代の扇動者トランプは、人々の想像力・意志に直接働きかけることで「もう1つの真実」を植え込み、発芽成長させた。

 人は、自分が信じたいものを信ずる――これは、まことに危険で恐ろしい特質でもある。直接確認しないことを信じないというのは、きわめて当たり前に思えようが、現実はそれが当たり前ではない。わが国も他人事ではない。

 まして、過去の歴史ともなれば、よほど冷静に思索を重ねないと奇妙な歴史感覚に支配されかねない。歴史と科学は未来の「ゆりかご」である。歴史は、人類が続く限り無限の連鎖である。人間は、過去には生きられない。現在もまた瞬時に過去になる。歴史を作っているのは、1人ひとりである。正しい道を歩もうというけれども、羅針盤はない。

 未来への羅針盤となるのが、過去の歴史の理解である。クローチェ(1862~1952)は、「すべての真の歴史は現代の歴史である」と指摘した。名言であるが、この言葉だけでは真の歴史を規定できない。なぜなら、人は現在の都合に合わせて過去を変えてしまう才能をもっている。歴史は歪曲されやすい。

 カント(1724~1804)は、「歴史の歩みのなかで、人間はゆっくりと理性的なものとなり、したがってまた道徳的なものとなる」と指摘した。逆にいえば非理性的な歴史的選択をすれば社会は乱れる。ところが、(瞬時に過去になる)現在のみの視点しか持ち合わせなければ、習慣の動物である人間は、理性的・道徳的な方向へ歩んでいるのか否か、考えなければ判断できない。

 コミュニティという概念がある。カントの言葉は、確たるコミュニティが前提されているようだ。善きことも、悪しきことも、メンバーが等しく享受・感得するならば、カントの言葉は成り立つ。残念ながら、そのような閉じたコミュニティはほとんど存在しない。ご近所の連帯は他所批判に傾きやすい。1国の連帯は他国批判でまとまりやすい。ファシズムの危惧はつねにある。

 われわれは本当に歴史を糧としているだろうか。同書を読んでいると、この気持ちがしばしば湧いてくる。さらに各章、いたる所に矢吹流「謎解き」的記述があってハッとする。研究=思索することの面白さに心を揺さぶられる。

朝河・天皇制論から考えたこと

 朝河史学の骨格

 そこで、『天皇制と日本史 朝河貫一から学ぶ』の天皇制に関して考える。

 矢吹氏は、朝河・博士論文『大化改新』(1902)に、朝河史学の骨格というべき記述があるとする。いわく、――大化改新(645)の位置は、日本国史上の二大危機の1つであり、もう1つは1868年の明治維新である。――

 日本は天皇の祖先によって征服された。征服は、天皇の徽章とされる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)に象徴される。大化改新は、天皇を無視した氏族制度の除去を狙った、天皇による革命であり、唐朝中央集権制を導入した。これは、「古い天皇プラス新しい国家」という形式にすぎず、両者に有機的結合はなかった。やがて天皇の権威は、周辺の文官と同じ一族から発する者に奪われた。

 さらに時移り、部族にとって代わった文官貴族が公的に国家を支配する。1185年の鎌倉幕府成立である。天皇の力は封建勢力によって隠された。19世紀に西洋勢力が日本に門戸開放を要求したとき、国民感情が強制的に目覚めさせられ、同時に天皇への同情の念が起こる。これが当時の愛国主義で、徳川幕府が倒れるや、人々の天皇支持が少数派(下級士族)を最強最新の勢力に作り上げた。これが、1868年明治維新である。

 日本史の画期を、645年大化改新⇒1185年鎌倉幕府⇒1603年徳川幕府⇒1868年明治維新と考える。大化改新から鎌倉幕府までがゆるやかな封建社会の形成期、鎌倉幕府から封建国家、明治維新で天皇の権威に代わった。徳川幕府は、封建制といわれるが、徳川幕府の特徴は、統治機構と経済組織であって、すでにポスト封建だとする。

 ところで、津田左右吉(1873~1961 文化勲章)の「大化改新の研究」(1930 朝河『大化改新』の30年後)では、大化改新や十七条憲法を明定できなかった。戦後、それが前人の未だ試みざる厳密な吟味! であるとして、津田が懐疑したままで煮詰められなかったことをもって学問的成果とする動きが、唯物史観ブームに乗った。挙句は大化改新虚構論すら生まれた。

 戦前昭和のえげつない皇国史観に対する批判があったにせよ、きちんとした歴史研究がなされなかったことが許されるわけではない。矢吹氏は舌鋒鋭い。さらにまた、朝河氏が、「大化改新とは、中国の政治教義と制度の明示的な導入に他ならない」と指摘しており、津田史論に、とりわけ関係の深い中国に対する国際的視野が欠けていることも厳しく批判する。

 これは感情論ではない。朝河氏は、研究者がテキスト(古文書)批判の領域を越えて解釈することを厳しく戒めた。矢吹氏は、「朝河は資料から何を読み取るのか、何を読む必要がないのか、その境界・限界を明確に自覚して史料を扱っている」と評価する。(第7章「日中誤解は『メイワク』に始まる」で、尖閣問題のポイントが記述されている。そこでは外務省が歴史的事実を改竄・捏造した事実が語られているので、是非、お読みいただきたい。)

万世一系

 さて、朝河――天皇制の万世一系とは、大化改新で拒否した中国の政治文化たる「易姓革命」論を強く意識して形成された、(明治日本独自の政治観念)――について考えてみる。

 易姓革命は、中国古代に成立した政治思想である。天子は天命をうけて天下を治める。天子は美徳を確保せねばならない。万一、その姓(家)に不徳の者が出れば、別の有徳者が出て、天命を受けて新しい王朝を開くとする。

 そもそも美徳は個人のものである。美徳の人から美徳の人へ、伝説にある堯⇒舜⇒禹のように禅譲するならば問題は起きない。しかし、天子の座に就けば世襲する。そこで不徳の者が登場する可能性は高い。かくして、天子の姓を引っくり返す革命が発生する。革命が頻繁に発生するのは、犠牲が大きい。

 そこで日本は、万世一系説を作った。すなわち皇統は永遠に同一の系統が続くとする。世襲を前提としたのである。万世一系を持ち出したのは「大日本帝国憲法」である。「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(第1条)である。日本独特の天皇神授説である。

 朝河天皇論の核心は、――法律(大日本帝国憲法)では完全な主権は天皇だけに賦与されているが、その主権はまた、国家の他の大きな機関との自発的な協調によって、微妙な三位一体主義に分割されている。――これは、天皇は単独で権限を行使しないという意味である。

 ――天皇主権は絶対性が認められたが、天皇が自らの発意でそれを行使したのではない(朝河はこれを受動的主権とした)、天皇は主権者ではあるが、専制君主ではない。受動的主権には危険性もある。いわゆる君側の奸が天皇の意に背いて自分たちの政策を無理やり押し付ける(ことがある)。――

 ――天皇の占める正確な位置は、おそらく社会生活の重要な中心人物であり、強い統一性の人格化を喚起するもの、そして、人々の野望を弱めるものと定義されるかもしれない。――

 朝河氏の分析は、皇室に対する国民の忠誠心が認められるとする。これは、外国人観察者を驚かせてきた現象である。現代の人々には、すんなり理解しにくいだろうが、歴史的証言として理解するべきであろう。また、天皇の法律的位置については、憲法起草に当たった伊藤博文(1841~1909)の『憲法義解』分析に依拠している。

 さらに、朝河氏は、――天皇という指令機関がなかったら人々の国民生活は外国からの過度の競争と、国内の未熟な戦いによって、突然終焉することを仮定するのは容易である。――これは、明治の始まりに近いほどそうであったと想像できる。討幕派の卓抜したコピー「尊王攘夷」が、おおいに力を発揮したことは歴史的事実である。

 要約すると、明治における天皇は自分から好んで権威になったのではなく、お神輿として担がれた。そして、政治的には微妙な三位一体と、国民に対する強い統一性を人格化することに憲法制定者の狙いがあったであろう。

 ふと気づくのは、T・ホッブス(1588~1679)流の、「自然状態では、人間は万人の万人に対する闘いにある(無秩序)が、相互契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従う」という考え方とよく似ている。実際、1877年の西南戦争で、ようやく不平士族の大きな反乱が収まった。朝河氏が同時代の歴史を記録した内容が、それと重なるのは当然であろう。

 朝河氏は天皇制の将来について、いかなる見解を持っていたのだろうか。いわく、――将来、天皇制が時代錯誤とみなされるような事態が到来するとすれば、それは天皇制のきわめて価値のある歴史的使命が演じ終えたときである。そのような時期は、国民の自治能力の充実したときのみありうる。――

 朝河氏は、個人的資質からしても民主主義志向である(と筆者は考える)。天皇崇拝は、民間信仰にも似ている。しかし、地位や血統によって、権威や神聖なものが備わっている人間が存在するとは考えにくい。まして、昭和時代に入ってからの日本が牧歌的皇国史観から異様な皇国史観に転じたことは十分過ぎるくらい認識していたであろう。

 1944年生の筆者は、ずばり、天皇制の歴史は、天皇利用者の歴史であると考えてきた。明治人の祖父母は、仏間の上に明治天皇皇后・昭和天皇皇后の写真額を掲げて、仏壇に向かうときは必ず写真を拝した。大正世代の母は仏壇に拝しても写真を拝したことはなかった。

 筆者は、明治初め尊王思想が一時的に高揚し、昭和の満州事変・日中戦争から大東亜戦争の15年戦争でも高揚したが、明治の尊王思想と昭和のそれとは性質が異なると考えている。それが、牧歌的皇国史観と異様な皇国史観という言葉で表現した理由である。

 皇国史観が人々の思想底流から生じたとも考えにくい。史観を構築するのは、支配者であると断じてもまちがいないだろう。日本人に限らないが、もともと人々は政治的にはアパシーが主流である。いわゆる「危機」が認識されたときに、大義名分をふりかざす人間(概ね支配層)に煽られて、ファシズム的思想・行動に走りやすい。ファシズムが原因ではなく、危機が原因でファシズムが結果だと考える。その意味で、朝河氏の『皇国史観と日本史』は、現代日本を考える貴重な視点を提供してくれる。

 思想の主流は、意識されているか、そうでないかは別として、人々の意識の底流に隠れている。朝河氏は、敗戦10か月前に、「国民感情は漠として不明確、国民の政治的思考能力が悲しいまでに未発達である」と語った。筆者には、これが過去の発言だとは思えない。今日の事情にそのまま共通するではないか。

  いまや、象徴天皇制である。果たして「人民の、人民による、人民のための」政治になっているだろうか。「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規に拠りておこなう」(大日本帝国憲法第4条)とあるが、伊藤博文は、極力天皇の政治責任を回避する努力を重ねた。奇妙な表現になるが、現在の天皇制は、まさに伊藤的憲法観の到達点に見える。

 天皇が、五輪開会宣言で、オリンピアを「祝い」を「記念」と変えて発言すると、一部の学者が憲法に抵触するというような心配をする。憲法を尊重して発言・行動する天皇であるべきことは当然だが、今日の政治的問題はもっと別のところにあるはずだ。

 すでに、天皇は権力の柱ではない。権力の中枢で、恣意的に政治をおこなっているのは天皇ではない。前述した朝河氏の言葉を再度記したい。

 ――将来、天皇制が時代錯誤とみなされるような事態が到来するとすれば、それは天皇制のきわめて価値のある歴史的使命が演じ終えたときである。そのような時期は、国民の自治能力の充実したときのみありうる。――

 だれもが拳拳服膺して、思索を深めたいのである。


奥井禮喜  有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人