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「不条理」「反抗的人間」「ぜいたく」

奥井禮喜

———カミュ『シーシュポスの神話』の周辺 ———

 ライフビジョン学会・7月の読書会は、『シーシュポスの神話』(1942)である。著者は、アルベール・カミュ(1913~1960)、当時は、ナチ占領下で非合法活動に参加し、喀血して療養中であったが、執筆は活発であった。57年にはノーベル文学賞を受けた。同書のコンセプトは――不条理――である。昨今のもやもや気分に、刺激的な気づきを読み取れるかもしれない。

不条理な本

 『シーシュポスの神話』は、カミュ自身が、冒頭(読者に)、「不条理を感じさせるための試論」だと書いているように、結末まで延々、執拗に不条理についてカミュ的感性が書き連ねてある。発表されて79年、カミュ29歳の意気軒高にして爽快な息吹を感じる。わたし流「元気の哲学」と重なって共感度が高い。

 読者が、この本を読みあぐねて本棚へ奉納するとか、新聞紙に挟んで資源活用に送り出すのは、哲学者批判の部分であろう。ヤスパース、ハイデガー、フッサール、ニーチェ、キルケゴール、シェストフ、シェーラーなど——名前は知っていても、その思想のカケラも了解しない読者にとっては、カミュの批判が正当か否か判断する手がない。読者にとっては、これぞ不条理である。

 この不条理を乗り越えるためには、カミュが批判している哲学者連の思想を知らねばならない。しかし、膨大な書物を読まなければならないから、とてもシーシュポスにまでたどりつかない。そこで本稿では、書き出しから結末まで、カミュの言いたいことと、共感することをつまみ食いしてみる。

哲学的問題

 カミュは、なぜ不条理を論証するのか――

 カミュは、真に重大な哲学的問題は1つしかない。それは自殺の問題だとする。人生は生きるに値するか否かという哲学的設問である。

 極論すれば、生きるに値するなら情熱的に生きるだろうし、価値がなければ死ぬしかない。――自殺は自分で自身の生を断つことだが、物理的に自殺しなくても、情熱的に生きられないのであれば、生きていても死の状態に近い――と考えよう。情熱的に=元気よく生きているか? 情熱的でない生き方は、生きつつ死んでいるのと大差がないと考えればよい。カミュは自殺を考えることによって、元気な人生への道筋を提起する。

 さて、人生は生きるに値するか否か。現実は人生の価値など考えなくても、大方の人は生きている。自殺する人が、人生に価値がないと考えたから自殺したとしても、生きている人すべてが、人生に価値があると考えているから生きているわけでもない。その証拠に、世間には元気溌剌とした人が多くはない。

 カミュは、生きることは習慣だと指摘する。人生に価値がないとして自殺する人は、いろいろ考えた結果として、生きる習慣を断つとする。逆に、人間を動かしているのは生きる習慣であって、それも、考えた結果(価値があると結論した)ではなく、考えずに生きている(習慣)という理屈にもなる。

 考えれば自殺につながり、生きるためには考えないという構図では、面白くない。考えもせずに考えたポーズで生きるのは偽善である。偽善が社会を動かすのであれば、ろくな社会にならない。――というようなことが、単にひかれ者の小唄だといわれる社会をカミュは全力を挙げて論駁しようとした。

人生の価値は自身が作る

 そもそも人生には――あらかじめ――価値が与えられていない。人生の価値が与えられていないとすれば、生きることによって! 1人ひとりが価値を作るしかない。ぼくの後に道(人生)ができる。Going my wayだ。

 この4月30日に亡くなった立花隆さんは、「知の巨人」と称賛された。立花さんは中学生当時、自殺にとりつかれた。解を求めて哲学の扉を叩いた。しかし、生きる意味はわからない。

 デカルト(1596~1650)は、――明晰・判明――を追求せよと言った。わからないことは、わかるまで、これ以上はない壁に突き当たるまで考え抜くべしと主張した。立花さんは、某日忽然と「明晰に生きよう」と考えた。グラグラしているが容易に抜けない歯が、味噌汁の豆腐をかんだ瞬間にポロリと落ちることもある。偉大な人生の扉は、ひょんなことで開くものだ。

 それで自殺願望を克服して、以来、ものごとはわからない、「わからないから面白い」という人生を生きたという。およそ世界はわからないことだらけ。ならば、自分が興味を持ったことをわかるまで追求してやろうじゃないか、という気構えである。人生における絶対的価値がわかったのではない。立花さんは、わからないことを明晰・判明にすることを、自身の人生の価値と規定した。生きることに絶対的価値はない。なにしろ、人はたまたま生まれたのである。

 古代ギリシャ人は、生まれたのならば、少しでも早く、生まれる前へ戻ることが最上だとした。人生に価値がないのならば元の状態、つまり死ねばよろしいというペシミズムである。数百年後、ギリシャ人の考え方は一転した。生きることに価値がない、しかも疫病や戦争や、生きることは苦痛・苦悩ばかりである。しかし、どうせそうなのであれば、生まれた以上は徹底的に生きてやろうじゃないか。そのギリシャ精神が土から蘇ってルネサンス精神を生んだ。

 現代風にいえば、「花のうちに死にたいわ」などと言うが、花といったって所詮たいしたものではない。そんなことに恰好つけるより、はいずり回ってでも生きてやろうじゃないか――というのがギリシャ精神である。コペルニクス以前のコペルニクス的転回である。

不条理、そして反抗的人間

 カミュは、「世界は人間の理性を超えている」とする。一方、人間はものごとの明晰さを求める。ここに不条理が発生する。つまり、理性で規定できない「世界」に生きている「人間」は、「不条理」によって世界と結ばれている。そして、主体的に不条理のなんたるかを認識したとき、情熱を得ると主張するのである。

 カミュが延々と哲学者批判を展開するのは、哲学者はいろいろ主張するけれども、1人ひとりが不条理の真っただ中に存在することを軽視し、理屈を並べて、矛盾だらけの世界と個人が和解するように体系立てる。あたかも「諦念」を持てといわんばかりの哲学論が多い。本当の哲学的解決にならない。カミュ流哲学は、絶対に「不条理」を手放すなという。不条理を手放さない人間を、カミュは「反抗的人間」と命名する。NOと言える人である。

 真なるものを追求することは、願わしいものを探求するのではない。真なるものが、顔を背けたいようなものであろうとも、主体的に対峙する。哲学は、世界は何も意味がないという地点から出発して、(自分の)世界に1つの意義を見出すものだ。あるいは、そこへ到達するための過程を照射しなければならない。これがカミュの主張であり、矛盾を飲み込んで統一してしまうことではない。これでは屈伏だ。反抗的人間は、どこまでも不条理と対峙し、情熱的に生きるのだと高唱する。反抗的人間は、「考える人間」でもある。

 およそ半世紀前に読んで、詩的に美を感じた言葉を書いておきたい。――とりたててこともない人生の、来る日も来る日も時間がぼくらをいつも同じように支えている。だが、ぼくらのほうで時間を支えねばならぬ時ときが、いつか必ずやってくる。――

 この本で、カミュの思想を支えているのは気づきである。まさにコペルニクス的転回である。カミュは書いた。――人生は意義がないだけ一層よく生きられるだろう――。それは、――不条理において生きることである――、だから、自分の意志にふさわしくないものに対し――反抗を生涯貫くのである――

 これが、カミュのめざす「自由」である。与えられた人生の価値がないことを歓迎すべきである——自由なんだから。そのためには、よりたくさん生きねばならぬ。自殺は、不条理への同意(屈伏)でしかない。

 人生には価値がないという地平から出発して、どこまでも、生きられるだけ生きてやろうじゃないか。これが、自分が、自分で、自分の時間を支えるということだ。それは、自分の行動を、自分の判断でおこなう人間である。「一切は許されている」(カラマーゾフの兄弟)という言葉が共感をもって語られる。だから、哲学は、なんらかの思想を決めつけるのではなく、1人の人間が、生あるかぎりより多く生きられるように、不条理を照射する役割を果たさねばならない。このような哲学こそが、生きるための哲学の名前にふさわしいだろう。

シーシュポスの神話

 『シーシュポスの神話』の末尾に、シーシュポスが登場する。シーシュポスは、ギリシャ神話に登場する超人である。

 神々に逆らったシーシュポスは、神によって、山頂へ岩を運ぶ懲罰を与えられる。シーシュポスが岩を山頂へ押し上げるや、岩は直ちに転がり落ちてしまう。長い努力の果てに山頂に運んだのだが、その労働は報われない。達成感はない。

 カミュはシーシュポスの偉大さを表現する。――シーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へと転がり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ、かれはふたたび平原へと降りてゆく。こうやって、麓へ戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。――

 ――この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。――

 この部分は、神話を題材としたカミュの感性的閃きの素晴らしさを示している。神話を通して、カミュ的哲学を展開した、それまでの大部が冗長に思えるほど、こちらは感性的ではあるが、明晰・判明そのものである。

 ――不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている――という言葉は地味だが、人生の意義を語っている。

カフカとの共通点

 付録として、「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」と題する一文がある。面白く、象徴的な話である。

 ――狂人が風呂桶の中で釣りをしている。精神病の治療法に独自の見解を持っている医者が、「かかるかね」とたずねたとき、狂人はきっぱりと答えた。「とんでもない馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」――

 笑える。独自の見解を持つ医者は、カミュが批判する哲学者と重なる。カミュは補足する。――カフカの世界とは、なにも出てこないと知りつつ風呂桶で釣りをする、身を噛むような贅沢を人間が自分にさせている言語を絶した宇宙なのである。――

 日本では、「タナゴ釣り」がある。タナゴは鱮と書く。コイ科の淡水魚で、形はフナに似ている。大きくなってもせいぜい8センチ程度である。拡大してみればなかなか形がよろしい。淡水に棲む小さな鯛みたいでもある。

 江戸時代には、大店のお大尽が、その名のごとく酸いも甘いも噛分け味わい尽くした挙句、川船を出して、釣るともなく、釣れるともなく、ひたすら小さなタナゴを釣るために糸を垂れた。少し調べると、いまでもタナゴ釣りに現を抜かす(失礼)人は相当おられるらしい。好き者の競技会もあって、そこでは小さいものほど釣果であって、手のひらにできるだけたくさん並べることを競う。1センチ以下のタナゴを釣るために、竿・糸・針・錘・浮き・餌など工夫する。針などは、ルーペで覗きつつ特性のヤスリで磨く。その技は時計修理工並みだという技術者もおられるらしい。

 なにやら風呂桶で釣りをする贅沢と張り合っているみたいである。不条理について考えてきたが、贅沢なるものが、何か不条理とつながっているようでもある。子どもが、海辺で砂遊びしている。砂のお城を作る。作り上げたお城は、波に洗われて消える。しかし、子どもが、本物の建築をするエンジニアと共通していないとは思えない。

 科学技術の先端をいく科学者・技術者はなるほど砂のお城を作るのではなく、赫々たる技術成果を上げる。たとえば武器、その最高峰としてのたとえば原水爆——本当にやりがい・生きがいを感ずるのだろうか。子どもは、砂のお城を作ってのびやかに喜ぶ。元気である。かたや、科学者・技術者は、自分たちの成果が駆使されるならば、巨大な殺戮と破壊に成功するだろう。嬉しいか!

誇り高き泡沫

 たまたま、わたしが『シーシュポスの神話』を読んだころ、1975年4月13日投開票の東京都知事選があった。立候補者は16人、ビッグ3は、美濃部亮吉(社会・共産・公明推薦)・石原慎太郎(自民推薦)・松下正寿(民社推薦)で、泡沫13であった。

 制したのは1位美濃部亮吉2.688,566票、2位石原慎太郎2,336,359票、3位松下正寿273,574票、4位(泡沫1位)赤尾敏12,037票、5位(泡沫2位)秋山祐徳太子3,101票である。保革激突ではあったが、政治が冬の時代に入る予感があった。もうひとつ燃えず踊らず(ただし、昨今と比べればはるかに賑わった)。

 興味を引いたのは5位の秋山祐徳太子である。あぶく、泡、はかない存在であるが、全16人中、もっとも異彩を放った。時に40歳。武蔵野美術大学出身、芸術家、ブリキやトタンなどを使って仏像を彫刻する、演劇人でもあるし、ルポライターでもあり、新宿ゴールデン街に出没する前衛芸術家の1人である。

 祐徳太子のスローガンは「保革の谷間に咲く白百合」、12,000枚のポスターを応援団3人が2,000枚貼ったら選挙が終わった。法定選挙費用1,600万円、祐徳太子は没収された供託金30万円を含めてざっと100万円使った。ビッグ3は、立候補受付後間もなく12,000枚を貼り終わる。ゴールデン街を地盤とし1,200万人に呼びかけた。ビッグ3の松下は供託金没収で泡沫13と並んだ。

 祐徳太子は、「爆笑の都市」を訴えた。当選など問題ではない。志はもっと大きい。いまの東京には爆笑がない。ええじゃないかの現代版になりたい。みんなが文化を楽しめるようにする。1人ひとりが、自分の人生を心から笑えるようにする。笑いがないのは、現実が空しいからだ。空しさを必死で演ずれば、みんなが笑う。選挙戦自体が文化的挑戦である。日本の革新は古い。余りにも菜っ葉服じゃないか! わたしは、このコピーをいただいて、「美的に大胆に菜っ葉服から飛び出せ」というコピーを作った。

 もっと、ぜいたく(精神)をしようじゃないか。庶民こそが主人公なんだ。ブリキ・トタンを素材として彫刻し生命を吹き込む。茗荷谷の林泉寺には、祐徳太子のブリキ仏像が納められた。彫刻家というより、芸術家という呼び方を好んだ。選挙戦には、パリッとした三つ揃いで臨んだ。

 わがうちなる「ぜいたく」を追求する生き方は、カミュの「不条理」「反抗的人間」にもおおいに共鳴するはずである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人