この稿は、これまではいつも東京の西郊、緑豊かな多摩の一角で書いてきた。しかし、今回ばかりは勝手が変わり、都心に近い築地の、東京港を見晴らす高層ビルの17階で書いている。向かいの月島も佃島も高層ビルが林立する石の街、しみじみ見ていると人間シロアリの築いた不吉な塚という印象を免れない。わずかに右手下にその一端がうかがわれる浜離宮が松の緑と庭の土と池の水が織りなす江戸の庭園の面影を感じさせてくれる唯一の空間である。
筆者がいるのは国立がんセンター中央病院の病棟。かつての胃がん手術の後10数年も経って、今度は十二指腸がんが盛り上がってきて、内視鏡手術で切除した。一応成功して予後もまずまずだが、炎症があるせいか微熱が取れない。それでもだいぶ落ち着いて来て今日の晩の病院食を初めて「おいしい」と感じた。それだけ元気を取り戻したのだからこの原稿も編集人のご催促を受ける前に仕上げようと思いなして、ベッドに上にパソコンを持ち出して書いている。
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それにしてもこの東京の街に果てしなく続くコンクリートの巨大な塊は何という眺めだろうか。隅田川の上流方向に緑や土の色は一切見えない。その代わりにこの無機質な岩塊は夜になると赤や黄や青や様々な色の光を発して不細工な己の姿を少しでも美しく、怪しく見せようと懸命な努力を繰り広げる。あちこちで言われる100万ドルの夜景の1つがここにもあるということだろう。だが、ほんの数百年も時間を巻き戻してみれば、ここには水と緑と木々と草花が織りなす、心安らぐ世界が大きな流れの両側にどこまでも続いていたはずだ。そんな光景を取り戻すとしたらとても100万ドルぐらいで済むわけもない。
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コンクリートの街にも地域はある。実際、ついこの間まで病院の向かいの築地市場は、東京でももっとも活気のある街の1つだった。魚市場に隣接する狭い迷路のような路地には寿司屋が軒を並べ、その一軒に首を突っ込んで目の前の市場からやってくる新鮮なネタの握りに舌鼓を打った覚えのある人は少なくないだろう。その雑踏の中に近年は中国や韓国や西欧からの客が増えて、周りの人が話しているのがどこの言葉なのかわからない、国際色豊かな街として人気を集めていた。
朝の4時から賑わっていたその市場はすったもんだの末に豊洲に去り、今は広大な駐車場だ。それに続く寿司の街のたたずまいは以前と変わらないが、背の低い建物がひしめく街にもはや賑わいはない。昨年来コロナ禍が客をせき止めてしまい、開けている店もいくつもあるのだが閑散としている。入院前に家内と娘とともに寿司を食おうと思ったら、夜の7時を過ぎていたせいもあってどこもお断り。やっと見つけた1軒の寿司は期待通りに美味かったが、「お客さん悪いねえ、もう酒は出せねえんだ」というわけで、渋茶を啜りながらトロのうまみをしみじみと味わったことであった。
地域が地域であるためには、場所と人とが必須である。ある場所に人々が集まって生活を営み始めれば「まち」は出来ていく。しかし、そこには必ず水と土と緑の生きたまとまり=小さな生態系が作られて、人間たちの命を土台のところで支えてくれなくてはならない。実際、19世紀初頭には世界屈指の大都市だった江戸は、水と緑の豊かな田園都市であり、まことにエコロジカルな街であったことが指摘されている。武家や大家の町人はそれぞれ庭づくりに贅を凝らし、下町の庶民たちもまた小さな庭を花で満たし、路地に植木鉢や盆栽を並べ、過密な環境に自然の息吹を取り戻そうと努力していた。
現在でもむろん、上から見るとほとんど目につかないが、高層ビル街の陰には、並木道もあり花壇もあり、緑豊かな公園もしつらえられて、石の城に少しでも潤いを与えようとはしている。それは単なる町のアクセサリーを超えて「地域に生きる」ことの基本条件なのだと思えてくる。何と言っても人間は1つの生命であり、日々自らを破壊しつつ同時に創造を続ける「動的平衡」の中でみずみずしい命をつないでいる(福岡伸一)からである。「私の地域」に回帰したら、改めてこのことを考えてみたい。【地域に生きる73】
【地域のスナップ】高層ビルの夜明け
築地にある国立がんセンターの17階から見た3月中旬の夜明けの光景。私の入院している部屋の窓から撮った。その日が手術の当日だったので一句詠んだ。
病窓の日の出希望のメッセージ 夕遊
次の日が定例の句会だったので、この句をメールで送ったら、宗匠・雀羅(ジャクラ)師から「生きる力をプレゼントしてくれる明け方の光です」との句評をいただいた。
薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。