月刊ライフビジョン | 家元登場

兵士はなぜ日記をつけたのか

奧井禮喜
仏壇の隠し引き出し

 日中戦争が本格化した1937年(昭和12)9月28日から38年9月1日まで、上海周辺で従軍し山砲を担当した兵士Nさんの日記を読んだ。1906年(明治39)仙台の生まれ育ち、戦地への応召したときは31歳、現役は26年から3年で除隊後は農業生活をしていた。召集されたときは後備役である。上等兵だが実際の戦争は初体験である。山砲とは、山地などで使用する目的で、砲を分割して運搬できるようにした大砲である。運搬には馬を使うので、直接の仕事は砲手と馭者の2つである。日記は、手のひら大で厚さ2cm程度。鉛筆と一部は万年筆で、几帳面に小さな文字が隙間なく書き込まれている。仏壇の隠し引き出しから偶然見つかった。肌身離さずつねに携行していたらしく、行軍や戦場でのわずかな時間にも記録している。盛大な見送りで神戸を出港して4日目に呉淞(ウースン)に上陸するが、上陸2日目には手持ちの食糧がなくなってしまう。

棄民となった皇軍

 驚き呆れるのは、戦場従軍中の大方の期間が食糧不足である。1942年9月、南太平洋のガダルカナル島作戦で、物資・食糧輸送が止まって一粒のコメすらなくなり、飢島といわれたのは有名だが、中国大陸においてイケイケドンドンでやっていた時期に戦場の兵士が食べることに事欠く有様であった。糧食・被服・武器・弾薬を運搬するのは輜重(しちょう)隊である。いかに皇軍兵士が勇猛果敢だと持ち上げたところで、食糧抜きで戦えるわけがない。旧軍隊には「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボの鳥のうち」というような侮蔑的気風があった。戦闘で命を懸けるのが兵隊であり、物資を運ぶ後方任務は役立たずだというのである。まあ、命がけ戦闘に向かう自分を奮い立たせる気持ちが言わしめたと見ることもできなくはないが、兵站(logistics)を軽視するようでは近代的軍隊ではない。栄養失調が原因で斃れた兵士は極めて多かった。戦う条件が整えられていなかったのである。

戦場の狂気

 座して死を待つわけにはいかない。食糧がなければ現地調達するしかない。そこで兵士は徴発に出向く。呼び出して強制的に兵士にするのも徴発だが、こんどは、その兵士が他人から強制的に食糧などの物資を取り立てる。おカネを出して等価交換するのが当たり前だが、戦争のために交換物なしで取り上げる。上海周辺は、蒋介石軍が本拠地として徹底抗戦をしていた。住民は自分たちの集落周辺が戦場化すれば逃げる。人気のなくなった住居から必要なものを持ち出す。もちろん対価など支払うわけではない。世間では窃盗になる。あるいは人がいて供出を拒否すれば(当たり前だが)恫喝して供出させる。これは強盗である。徴発に出かけて住民を装った兵士に殺害された事態も少なくない。畑も荒らすから皇軍は蝗軍といわれた。三光政策=殺光(殺し尽くす)・槍光(奪い尽くす)・焼光(焼き尽くす)の非人道的行動が国際的に批判された記憶を忘れるわけにはいかない。

私はまだ生きている

 蒋介石軍は、徹底的に日本軍を消耗させる戦略である。攻めては引き、引いては攻める。心理作戦も巧みであった。兵器も日本軍のものより優秀である。戦闘も命懸けだが、20~30kmの行軍は辛い、それも泥沼で、田んぼの代掻きのほうがラクだという。夜討ち朝駆け、蚤・虱・蚊につきまとわれて熟睡することがほとんどない。とにかく雨が降らないように切望する。入浴は珍しいし、衣服の洗濯もままならない。髭も剃れず、乞食のようだと思うこともしばしば。丈夫だったNさんもついにマラリアに罹って、死ぬ思いの行軍数日後、やっと野戦病院入り。大方は筵を敷いただけの病床だ。故郷からの便りが恋しい、ひたすら除隊日が来るのを指折り数えて待つ。精神的・肉体的に極めて劣悪なサバイバルの日々であった。そんな中で日記は寸暇を惜しんでほぼ毎日書き綴られた。思うに、人間である精神を支え続けるために、書かずにはいられなかったに違いない。戦争である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人