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ドキュメント・コロナ2020 to 21

奥井禮喜

 スペイン風邪からちょうど100年の2019年末発生して、世界中を震撼させたコロナウイルス騒動であるが、収束には道遠しだ。

 スペイン風邪は、世界人口20億人当時、1億人近くが亡くなった。発生地はアメリカ本国の陸軍基地である。第一次世界大戦中で、アメリカは情報を公表せずにひた隠した。中立国のスペインに感染が伝播拡大して、スペインが発表したのでスペイン風邪の名前がついた。アメリカでは50万人が死亡、日本では39万人が死亡した。アメリカ風邪と名付けるべきであった。

際立った中国の対策

 2019年12月8日、中国湖南省武漢で原因不明の肺炎患者が発生した。武漢政府が事態を軽く見てもたついたが、態勢を立て直し、31日にWHO(世界保健機構)へ報告、20年1月1日にクラスターが発生した武漢海鮮市場を閉鎖した。2日にはゲノム配列を抽出し、11日にGISAID(インフルエンザウイルス遺伝子データベース)に公表、19日にはヒト・ヒト感染を認定した。23日には1000万都市の武漢市を封鎖した。

 感染の潜伏平均5~6日、幅は1~14日あるので、濃厚接触者は2週間観察する。感染症状は発熱・かなりの倦怠・味覚嗅覚障害で、入院期間の中央値は11日、8割が軽症で感染しないが重症になるリスクが高い。これらは中国の体験からの数値である。

 中国の取り組みは迅速を極めた。1000床規模の火神山、雷神山病院を10日ほどで完成、全国から4.2万人の医療スタッフ(うち3000人は軍関係)を集めて治療に当たった。2月17日には退院者が新規感染者を上回った。24日には、感染ピークは1月23日から2月2日であったと発表した。武漢市封鎖を解いたのは4月8日であった。

 20年クリスマス、中国の累積感染者は9.4万人・死亡は4700人である。世界の累積感染者は7800万人超・死亡170万人超、日本は累積感染者21万人超・死亡3000人超である。武漢の繁華街やプレイスポットはマスクなし3密無関係に、人々が屈託なく楽しんでいる。

 トランプ氏らは、中国が情報を隠したとして恨み節をぶつけたが、中国的官僚主義があったにせよ、当初の戸惑いがあったにせよ、状況を理解した後の疾風怒濤の取り組みには舌を巻くしかない。共産党独裁体制と民主主義制度を比較する向きもあるが、的外れである。いかに独裁体制といえども、打ち出した政策が的外れであれば感染拡大防止にかくも短期間に成功するわけがない。人々がそれを信頼して同一行動をとったからこその成功だ。

 2月26日には、1日当り中国の感染者が411人増加したのに対して、その他各国の感染者が合計427人増加した、WHOはパンデミックの警鐘を鳴らした。WHOがパンデミック宣言を発したのは3月11日であったから、これまた槍玉に上げる向きがあるが、WHOはサービス機関である。すべての責任は各国の主体性にある。抑え込みに成功した国もある。こうした経緯を見ていると、各国それぞれのコロナウイルス対策の技術レベルの差、巧拙があったのは事実である。

不測の事態は無思考から生まれた

 不慣れな事態であるから、初めから何ごともスムーズにやれなどというつもりはない。ただし感染症対策に関しては、たとえば米国ジョンズ・ホプキンス大学が2018年に報告書「8つの勧告」を公表している。パンデミックを引き起こす可能性が最も高い病原体はRNAウイルスであり、調査・監視・研究・対策の開発をやるべしと主張していた。アメリカの専門家120人が討議した結果である。

 スペイン風邪当時と比較すれば世界はまことに小さくなった。日本は島国だからと、のんびり構えていられない。感染症問題が発生した場合、つねづねアクシデントに備えて助走期間をもっていたか、もっていなかったか。もっていなければ慌てふためくことになる。衛生事情がよくなったから油断してしまったとか、過去に感染症の体験が少ない。専門的分野が弱体で、政府当局にも専門家が少なかったなどの事情があるかもしれない。

 だから、一切の同情をしないつもりはないが、政治が、感染症対策を軽視していたことは明らかである。火の粉が飛んで来ないからのんきに構えていたのである。それについて全然同情しないのではないが、今回の一連の騒動を見て、「不測の事態は無思考から生まれた」という事実を、政府当局者はきちんと反省したのだろうか。これを頭に叩き込んでおくべきである。

 いよいよ火の粉が飛んでくれば、それを払いのけるのが第一義になる。それも仕方がない。しかし、今回の問題は素人でも事態が長引くだろうと考える。長引くということは、小手先でちょいちょいと片付かない。可能な限り早急の本質的対策を構築しなければならない。厚労省の官僚諸氏が優秀であろうとも、本質的対策の構えがなければ長期戦への円滑な対応を欠く。いままでのところ、本質的対策が構築されたのかどうか、おおいに疑問である。

体制立て直しのチャンスだったが

 ダイヤモンドプリンセス号が横浜へ入港したのは昨年2月3日であった。3600人が5日から船内待機となり、全員の下船が完了したのは3月1日である。専門家は当初、「全員下船がよい」と提言したが、当局は受け入れなかった。臭いものにはフタをするスタイルである。常識的には、速やかに全員の検査をして、感染している人だけを隔離・治療すればよい。ところが、当局は、「下船するまでには全員検査を終わる」という方針だった。

 感染していない人も感染扱いされるのだから、当事者にすればたまらない。最高の旅である長期クルーズの最高潮が大トラブルで閉じるのである。同情を禁じえない。実際、自殺したくなったと語った人もいた。持病の常備薬がなくなって、SOSを発した人もいた。船内待機は人権問題である。

 世間はまだコロナウイルスについて関心が低かった。神戸大の岩田健太郎教授が短時間ではあったが乗り込んで、ユーチューブで報告したので一気に関心が高まった。感染症対策では、ゾーニング(安全地帯と危険地帯の区別)をするが、報告によれば実に雑駁であった。結局、さっさと下船していれば感染しなかった人が感染した。

 船内待機中の2月15日、専門家は「すでに3次感染の可能性がある」と指摘した。すでにウイルスは上陸している。船内隔離だけでは間に合わないという指摘である。国内の初感染者は1月15日にわかった。2月13日には国内初の死亡が出た。

 2月9日、首相の安倍氏は、「私の責任で万全な対策を取る」と語った。疑問だけではなく不信感が沸いた。私の責任を振り回されても、氏はズブの素人である。万全の対策というが、船内待機という奇妙な手立てを講じている。何よりも、感染症対策ができるか、できないか、確たる展望がないのに、決意だけは最大限の形をつける。いかなる大波が発生しようと、つねに波に乗ろうとするサーファーを思い浮かべた。

 ダイヤモンドプリンセス号の体験から学んで、その後の対策に何か貢献するものがあっただろうか。

 2月27日には、安倍氏が学校の一斉休校を要請した。メディアが、安倍氏は厚労省に対策を丸投げして、関係部門(厚労省・内閣官房・国立感染症研究所)の足並みが揃わず、情報が十分に回っていないという指摘をしていた。

 世間では、マスクや消毒液がお店にないと騒動していた。4月には、かのアベノマスクが発表された。「やっている」感の演出ばかりに熱心で、意味がないと悪評紛々になった。PCR検査器が少ない。1世帯2枚配布するマスクは500億円といわれたが、PCR検査器は1台1000万円程度というから、500台は買える計算になる。

 船内待機の体験がまるで生かされていないことが露呈した。感染症対策の原則は、3T=Testing・Trackig・Tracing、つまり感染者発見・感染経路確認・接触者追跡である。そして、早期発見、感染者隔離、早期治療を円滑に展開することである。水際対策にせよ、蔓延防止にせよ、3Tを柱にしなければ成り立たない。3Tを確立するためには、保健所などの人員手当が不可欠である。PCR検査器を増やさねばならない。しかし、直ちに本腰を入れた形跡はない。

 感染爆発を防ぐために、対人間距離の確保・マスク着用・手洗い励行と、3密(密閉・密集・密接)を避けようという提案、いわゆる自粛が大々的に呼びかけられた。もちろん納得できるが、感染症対策の本丸は、早期発見・感染者隔離・早期治療であるから、こちらの具体的進捗状況が極めて大切である。「自粛」提案の肝は、医療体制が万全であるように、その準備期間を稼ぐのが狙いである。皆が自粛して感染拡大が防げる程度であれば大騒動する必要はない。

 実は、専門家は3月前後に、「なぜ日本では感染が少ないのか不明だ」「感染がコミュニティで拡大していないのは幸運だ」と指摘していた。一般の人々もそのように考えていたのであり、専門家が同様の見解を漏らすところに、感染防止対策が行き当たりばったりで、確信がないものだという事情が見える。

 緊急事態宣言が出されたのは4月16日で、当初予定を延長して5月25日まで継続した。自粛、あるいは自粛的雰囲気の醸成が6月ごろまでは有効であった。直近1週間の10万人当たり感染者が0.5人にまで下がった。収束方向に入ったように見えた。収束への期待は膨れたが、そうは問屋が卸さない。7月に入ると再び感染者が上昇しはじめ、8月7日に1日1605人を記録した後、以後500人程度で推移した。11月に入りはっきり上昇へ、28日には2676人、12月24日には3740人まで感染者が増加した。都道府県区分で見ても新規感染者は全国に拡散していて、予断を許さない。

かけ声対策に対する批判

 印象に残るのは、政治家の空疎なパフォーマンスである。感染拡大傾向が見られるたびに、「最大限慎重に事態を見守る」「ここしばらくが正念場」「緊張感を共有したい」「勝負の3週間」などの修飾語だけで中身のない言葉がしばしば発せられた。その都度、具体的に何をするかとか、いかなる展望があるのかという内容が語られたためしがない。国と自治体、自治体同士の足並みが揃わないのも大いに気がかりである。いまだ改善されたとは思えない。

 司令塔が不在である。安倍氏から菅氏にバトンタッチしたが、両者に共通するのは全体の戦略があやふやである。仕事の出来不出来は、段取りが勝負である。段取りなしで仕事を進めていると、挙句は何をやっているのか分からなくなる。不都合にぶつかっても円滑な修正作業ができない。段取りをきちんとおこなうためには、「何を・何のために・いかにして」おこなうのかについて構想しなければならない。GoToトラベルの賛否両論、てんやわんやが悪しき典型事例であった。

 旅をしましょうというのが、自粛の呼びかけと正反対である。しかも、感染が再拡大しつつあった7月からであるから、司令塔のオツムは破綻しているのではないかという声が出る。そこまでの感染拡大が収まったのも、成功した理由が明確ではない。なにがなんだか分からないが、沈静化しつつあるように見えただけである。病院勤務者はほとんどグロッキーであった。ベッドの数さえ増やせばいいのではない。ベッドが治療するのではない。1つベッドを増やせば数人の増員が必要である。医療危機がすでに起こっている中でのGoToキャンペーンは、常識的には理解できない愚策であった。

 命を守る上でも経済活動が重要だという。然り、経済活動は命を守るためにこそある。しかし、命が危険であるのに、経済活動をするべきではない。経済を救うためには、その絶対条件としてまず人命を救わなければならない。コロナウイルスを抑制したほうが、死者が少なく、経済損失も少ないと考えるのが筋道である。

 いまは、コロナウイルス騒動に耐える力、耐力を必要とする段階である。コロナウイルス騒動の収束が明確となった段階では、いままでへこんでいた分を取り戻すための復元力が大切である。コロナウイルスに対する十分な研究がなければ、いまがいかなる段階にあるのか判断できない。かけ声対策とパフォーマンスに一所懸命の政治家諸君はまことに危ない。

 塞翁が馬というべきか、コロナウイルス騒動のお陰で、昨年は1年間を通して、危ない政治家とはどういうものかという学習をした。この経験を活用するのは全面的に「わたし」の裁量である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人