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叩き上げ? 成り上がり?

奥井禮喜

官尊民卑は全体主義に直結する

 敗戦後75年のデモクラシー・ロードを歩いてきたにしては、第99代首相のデモクラシー認識に疑問符がつく。日本学術会議会員推薦者の任命拒否問題である。推薦者105人中の6人が若葉マーク首相に嫌われただけではない。前の首相もそうであったが、人間的に見て度量が狭い。度量の狭い人間が行政の頂点に立つならば、行政が歪みやすい。

 人気取りの小手先ポピュリズム政治は願い下げだ。いま、わが国は社会・経済・政治のいずれの視角からしても活力がない。国力が著しく低下している。

(参考)――OECD35か国の2019年平均賃金調査によれば、1位から4位までは、ルクセンブルク、アイスランド、スイス、アメリカで6万ドル台。5位から10位までが、デンマーク、オランダ、ベルギー、オーストラリア、ノルウェー、オーストリアで5万ドル台、韓国は40,229ドルで19位。日本は30,862ドルで24位である。35か国平均は40,859ドルであるから、日本は平均以下になっている。――

 世界第3位の経済大国の面影はすでに過去の話である。今後を展望するなら、社会において、知性と行動力が効果的に発揮される必要がある。官僚政治家的なちまちました発想で政権を運営してはならない。「国民のために働く」というが、政治家が国力の源泉ではない。国民力こそが国力である。政治家が号令をかければ何でもできるなどと考えるのは危険な幻想である。

 日本学術会議会員の任命拒否騒動がはらんでいる問題は決して小さくないと考えるので、一文を記しておきたい。

――日本学術会議を政権の下請け化――

 6人の先生方が拒否された理由は、菅氏に聞くまでもなく透けて見える。菅氏一派が気に入らないからである。ただし、問題の核心は任命拒否に留まらない。日本学術会議を政権の下請けにする魂胆である。これが大きな問題だ。

 日本学術会議といえば、日本の知性の代表というべきである。日本の知性を政権の下請けにするのは、成り上がり者の卑屈な根性の裏返しである。叩き上げであれば、知性を育てることがいかに大変な努力を必要とするか程度はわかるはずだ。知性に対する尊敬の念が希薄である。これでは叩き上げではなく、成り上がり者の卑屈さのなせる業としか考えられない。

 任命を拒否した理由、すなわち拒否してもよろしい理由として、菅氏は当初3点を指摘した。① 日本学術会議は政府の機関である。② 年間10億円の予算を出している。③ 日本学術会議会員は公務員である。――つまり、日本学術会議および会員は、政府の長たる菅氏の配下にあるのだから、すべては、わたしに従えというのである。これが、菅的思考の大枠であり、古く、かつ悪しき官僚政治の考え方である。

 ① 日本学術会議は、所轄は首相であるが、他の忖度官僚がいる諸官庁とは異なって、独立した団体である。換言すれば、政府の機関ではなく、もっと大きな視界で活動する、国民・国家の機関である。首相の所轄であっても、日本学術会議は政府の下請けではない。これは先刻承知の話であるが、菅氏の考えは、日本学術会議が政府の下請けたれというにある。

 ② 「カネを出すが、口も出す」と言いたいらしい。しかし、たかが10億円程度の拠出で、日本学術会議で活動する諸先生の知恵を買い取られると考える金銭感覚! に驚き呆れる。実際は交通費など実費と日当19,600円にすぎない。叩き上げだから、おカネの価値を痛いほどよく知っていると言いたいのだろうか。

 よろしい、それならば、森友事件の国有地値引きはいくらであったか。8億円強である。たまたま露見したから8億円を失わなかったが、どうして官僚の裁量でこのような野放図な事態が発生したのか。10億円にもったいつけるのであれば、なぜ8億円の原因究明を徹底しないのか! 

 日本学術会議の10億円は膨大な知恵を生む。森友の8億円はどう見ても立派な無駄遣い、いや、背任・横領である。——この程度の比較すらできないのであれば、叩き上げの苦労人とはとても言えない。

 ③ 日本学術会議会員を公務員と単純に言い切ることはできない。菅氏にすれば、他の忖度官僚と等しい公務員だと考えている。これが大きな間違いだ。H・ポアンカレ(1845~1912)は、「学者は『実益』があるから研究するのではない」と語った。手弁当で活動する諸先生も同じ思いだろう。公務員の立場を求めて研究活動するのではない。

 もちろん、政府周辺で蠢いて、知性を売り物にしている学者も少なくない。知性商売人たる学者は、神様ならぬカネ様教の信者である。日本学術会議をまとめてカネ様信者に改宗させようとするのは、まことに失礼千万である。

 政治家は、ノーベル賞を授与された諸先生をおおいに持ち上げる。ところでノーベル賞獲得の陰に、政府から潤沢な資金が提供されていたというような話はまったく聞かない。政治家がカネ様教信者であるからといって、ポアンカレ精神でがんばっておられる諸先生を自分並みに扱うのは大間違いだ。

 デモクラシーにおいては、手続きが極めて大切である。中曽根康弘首相が答弁したごとく、内閣所轄上の任命は形式であって、日本学術会議の会員推薦に異議を唱えたり、任命拒否しないのが従来の手続きである。ところが、今回は、「推薦通り任命する義務はない」と居直った。これは、手続きの重大な変更である。首相の任命は形式であって手続きであることがひっくり返された。

 こんなことが時の政府によって自由奔放におこなわれるのであれば、たとえば――憲法第6条には「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」とある。この天皇の国事行為はきっちり形式であって、義務である。菅内閣流でいくと、義務とは書いてないから、「指名に基づいて任命する義務はない」という理屈が成り立つではないか。

――官僚政治の危惧――

 自民党は、学術会議のあり方を議論するという。任命拒否問題の審議が決着する以前に、このような行動を提起するのは、恐喝に等しい。誰がボスかわかっているのかというブラフである。これでは、知性の学者に対して、知性を蔑視するモッブの政治家である。日本学術会議会員の任命拒否問題を見ていて、誰もが不愉快になるのは、「政治家に知性がない」ことが露見したからだ。

 政治は最高の道徳である。これはお飾り言葉ではない。人間は社会的動物であるから、政治と断絶できない。さらに踏み込めば、人間のあらゆる言動・行動は政治そのものである。政治において道徳性が高いか、低いか。政治に対する信頼性が高まらないのは、政治における道徳性が低いからに他ならない。

 政治は結果であると恰好つけて、ろくな結果を残さず手柄顔して去っていくのは、政治家に道徳性が欠如しているからだ。一方、知性が備わっていても、悪魔的意志にかき回される人は少なくない。多数決政治を暴走させないために、政治は最高の道徳であるという言葉をじっくり思い返したい。

 政治家が道徳性を失うのは、背景に3つの危害がある。いわく、① 歴史の忘却、② 経験主義、③ 権威主義である。そして、これを串刺しにしたのが官僚政治(家)である。官僚政治家は、政治機構自体の運営を最大目的として、政治機構によって生きる要員の都合をすべてに優先して考え、行動するのであって、「国民のための」政治というのは、単なるお飾りにすぎない。

 ① 極めて遺憾なことに、とりわけ自民党人士の多くは、明治以来の専制政治・軍国政治に対する反省が欠落している。歴史を意識的に忘却している。かつての栄光に気分高揚し、都合のよいところだけしか見ないのは児戯に等しい。「あの戦争の時、自分は生まれていなかった(から責任がない)」というような言葉が大臣の口から出るのは情けない。

 愛国心というものは、ニッポン! チャチャチャではない。個人が真っ当に成長したいと心得るように、日本国もまた世界各国に認められ尊敬されるように成長するための心構えでなければいけない。似非愛国主義の政治家が少なくないから、外国人に対するヘイトクライムが無くならない。

 敗戦に至った歴史を反省して、国の将来を考えることを自虐史観などと罵倒するようでは、永久に周辺国と心を開いたお付き合いができない。日本学術会議は、かつての全体主義の歴史の反省に立って、日本人のデモクラシーを育てようとしてきた。デモクラシー政治において、権力に唯々諾々と従わないのは、権力の悪魔性を育てないためであり、それが権力への監視と言われる。日本学術会議が独立性を維持するのは、会議自身の自己満足のためではなく、国家百年の発展を願うことと相通じている。

 ② 社会の知性は、政府機関のためだけにあるのではない。知性は、社会全体のために発揮されるから価値がある。原子爆弾を作った科学者たちは、戦争時だから自分たちの国の勝利に貢献するために奮闘した。しかし、その結果を見て一番驚いたのは、原爆を製造した良心的科学者である。良心的であることは、反省できるのであって、反省できないのであれば、いくら経験を積んでも経験の外へ発展できない。

 いまの世界は全面的軍縮の声の出番がない。世界各国の政治家は自分の経験から結論を出すことしかしない(できない)。経験主義の堅い殻を克服するのは新たな知性である。知性が育たなければ現状は変えられない。

 実際、経験主義の権化の政治家が、「積極的平和主義」というコピーをひねり出したが、中身がない。外国から高額な武器を購入するのが精々である。しかも、ミサイル防衛理論の有効性は極めて怪しい。

 防衛といえば軍事力強化に邁進するが、軍事力強化の行く末を描いて見せる政治家はおそらく1人もいないだろう。描くとすれば、世界の終わりである。世界の終わりの想像力がないから、軍備充実が平和への道筋だというような錯覚に満足していられる。

 ③ 新渡戸稲造(1862~1933)は、農業を盛んにするために政治家になって農業大臣をめざすという学生に対して、そんな遠回りをせず、農村に入って農業技術の改良をやれと忠告した。政治家の大方は、自分が何か具体的に改善・変革するのではなく、どなたかに改善・変革をやっていただくために号令をかけているだけである。

 「働き方改革」を唱え、「一億総活躍」を掲げるが、かかるコピーを引っぱり出すことに、ちょいと頭を使っただけで、具体策はすべてあなた任せである。コロナ騒動でPCR検査を増やせず、感染追跡の取り組みを改善できず、茶坊主官僚の言いなりにマスクを配って、苦い笑い話を提供したのは、菅氏がNo.2であった長期政権である。

 何が政治家の力なのか? 1人の政治家が総理大臣になったからといって超人になるわけではない。私生活はただのおっさんである。ただのおっさんが総理大臣していられるのは、総理大臣というポストの権威である。物理的には公務員組織の頂点に立つのみである。明治以来、徹底した官尊民卑思想で官の権威を高め、その権威を軍隊・警察で物理的権力とした。

 しかし、権威というものは本人ではなく、他人が認めてくれるものである。政治家が勲章を配ったり、芸能人まで含む有名人とねんごろになる努力をするのは、いわば、権威を飾り立てて見える化するのであって、逆にいえば権威の中身がないからそのようにあくせくせざるを得ないのである。

――社会を縦関係にする官僚政治――

 まことに残念ながら、わが国はいまだ官尊民卑の気風が根強い。歴史を辿れば、鎌倉幕府以来、760年にわたって植えつけられたお上意識である。戦後、デモクラシーによって、公務員はパブリックサーバント(公僕)となったのであるが、官僚政治家は官尊民卑の意識を克服していないし、国民も官尊民卑においてお上を敬遠した意識が根強く残っている。それが政治的無関心=アパシーである。

 官僚政治家の著しい特徴は官僚機構第一の思想である。そこには公僕意識などは存在しない。官僚機構第一思想においては、上意下達が絶対である。それを信奉するものは官僚機構の権威に対する事大主義が価値観である。悪いこととは知りながら! 忖度して恬として恥じないのが典型である。

 官僚機構の事大主義文化! においては、誰も責任をもたない。敗戦の際、結局、戦争責任がうやむやになったごとく、責任を求めて追及しても、タマネギの皮をむくのと同じである。これが敗戦までの日本国であり、全体主義という、だれも責任をもたない奇妙な権力構造の国家である。

 日本学術会議を名実ともに政府の下請け化する狙いは、官僚政治家が、わが社会の知性を官僚機構に組み込むのである。官僚政治家が、社会の知性を官僚機構に組み込むのは、敗戦までの全体主義の官僚国家を再現するためのステップであって、単に任命されなかった6人のスケープゴートの問題に止まらない。

 公務員は国民全体に対する奉仕者である。わが国は、主権在民である。国民のための仕事をする官僚機構が、国民主権の上に君臨しようとしている。これは明らかに逆コースである。政府並びに自民党の暴挙には絶対反対である。1人の国民として強く抗議の意思表明をする。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人