月刊ライフビジョン | 論 壇

政治的常識なるものの「おさらい」

奥井禮喜

政局不安定こそ大事

 「政局の安定」とは煎じ詰めれば、過半数以上を有する政党が国会を牛耳ることである。十数年前、「決められない政治」という言葉が飛び交った。参議院で与党議員の「頭数」が野党のそれを圧倒していなかったので、簡単に法案が成立しなかった。2012年以降は、自公両党が衆参両院選挙を制して、安倍政権の長期化を作り出した。「決める政治」になったのだろうか?

 その間、極めて乱暴な議会運営がおこなわれた。これ、とても忘れるわけにはいかない。決めればよろしいというものではない。それだけではなかった。野党が与党のスキャンダルばかり追及するという批判が出されるが、冷静に考えたい。スキャンダルを作ったのは安倍氏をはじめ、自民党議員諸氏である。以前ならば、スキャンダルを起こした連中は速やかに退場させられた。巨大与党は数の力で守ろうと突っ張る。理屈にならない理屈で防衛戦を展開するから、野党の追及が結果として長引く。政治的空白と批判される。

 なるほど、多数党が国会を制しているから政局が安定しているが、その結果として政治の空白を作り出した。程度のよろしくない議員の「頭数」による政局安定は政治を堕落させるという体験則も重々銘記しておきたい。

 子どもの世界ではあるまいし、厄介な課題が山積する政治の世界において、ものごとが簡単に決まらないのは当たり前だ。真摯・執拗に議論するための議会である。時間がかかると批判する、政治学者や識者連中のオツムは単純である。程度のよろしくない論評が、丁寧・精緻な議論ができない議員が主役になる状況を作ってしまった。学者・識者なる看板も、慎重に吟味して拝聴するべし。これまた、重々銘記いたしたい。

 概して人間はラクなほうへ、ラクなほうへとなびく習性がある。水は低きに流れるのであって、怠惰の引力はなかなか逆らいがたい。職業政治家とて同じである。何よりも彼らは厳しい選挙の洗礼をうけるから、政策能力の研鑽に努めるよりも、ともすれば次の選挙に備えて英気を養いたくなる。「常在戦場」というが、これがすべてを物語る。「常在政治」ではないのだから始末がわるい。政治の場、国会こそが議員の戦場だということを弁えてほしい。

 国会が知性の場だと考える市民が多いだろうか? 知性ならぬ痴性の紳士淑女もお見掛けする。高い質の意見が交換されるとき、政治は緊張感を生み、その結果として政治が芸術・道徳に昇華できる。そうなれば、アパシー(政治的無関心)を装う市民の出番がない。アパシーがメジャーたるところに、わが政治文化の頽廃を見る。

 政局の安定は職業政治家に惰眠をむさぼらせる。これを、有権者諸兄姉はオツムに叩き込んでおかれたい。政局の安定は政治の安定と等しくない。政局の安定は職業政治家を堕落させる。だからこそ、よい政治をやらせるためには、政局の不安定こそが大事である。乱暴な議会運営は議会政治の堕落である。与党に投票した有権者も、議会政治を堕落させるつもりはなかったはずだ。この間の政治から学んだ教訓としたい。

惰眠をむさぼる社会的気風

 惰眠をむさぼる気風は与党政治家の専売特許ではない。有権者においては、「選んでやったのだから任せて安心」という気風が幅を利かせている。これが、そもそもの心得違いである。

 考えてもみてほしい、なぜ人々が政治を嫌い、政治家という仕事に憧れないか? 人が嫌がる仕事なのだ。憲法を読めば直ぐにわかる。「公務員は全体の奉仕者である」。公僕、パブリック・サーバント、公(人々)に対する「しもべ」である。候補者が選挙で絶叫また絶叫、腰を低くし、頭を下げるのは当たり前で、土下座までやってのける。世間常識としては、誰が「しもべ」になるために土下座するだろうか。奇妙奇天烈な話である。

 もちろん、清き一票をかたじけなくいただくための作戦である。わが事務所のある選挙区の与党議員は、ぞくぞくするほどに猫なで声で通行人に声をかける。当然ながら、やがて元は取る。長靴をはかずに台風被災地へ入り、現地職員にオンブさせた手合いである。

 地方議員はドブ板議員と尊称を奉られている。市民が自宅前のドブ掃除をしてくれと市会議員に注文するごとき話が絶えない。地方議員諸氏が我慢するのは次の選挙で当選したいからだ。なにしろ、あいつの女房は頭が高いと悪口を言われるだけで得票に影響する。ドブの中に清き一票ありだ。

 地方議員から国会議員になって、首相・大臣などになれば、叩き上げの大出世として新聞に書き立てられる。県会・国会は数が少なく、競争が激しい。市会議員を真面目にコツコツやっても、県会・国会へ押し上げてくれるというようなキャリアルートはない。新首相が「自助」に寄せる思いは格別であろう。

 国政であろうが市政であろうが、議員は公僕である。国会議員になるための得票が地方議員よりも多いだけで、多く得票したから公僕を卒業できるわけでもない。しかし、これを忘れている国会議員は少なくない。国会議員は選挙戦ではドブ板のポーズをするが、地方議員とは異なって、周辺を取り巻きが固めているから、自分はエライ「先生」だという自己満足に陥りやすい。

 地方議員から見れば、大方の国会議員は地元に足がついていない。ただし、党内では上位ポストを占めているから、同じ「先生」でも格がちがう。もちろん、先生にも敬称だけのと、同志的連帯感で結ばれたのと二通りある。大方は前者が多い。前者の先生は、悪いことと知りつつ、危ないとびびりつつ、現ナマを配ったりする。運悪く! 鴛鴦の契り拘置所暮らしとなることもある。「先生」をやるのも、なかなか辛い。

 地元回りに怠りなく、国会議員の当選回数が増えれば大臣候補である。では、勉強研鑽に努めて、大臣の椅子に座れるだけの能力を磨いているか? これまた怪しい。待望の入閣を果たしたものの、ろくな答弁ができない。そんな手合いが所管大臣として安保法を成立させたりもするのだから、数の力というものは恐ろしい。目下、国会はモッブ・シーン(mob scene・徒党の世界)というべし。

 デモクラシーの根幹は、市民による自治である。トクヴィル(1805~1859)は、「地方自治体こそ自由な人民の力である」と書いた。しかし、市会議員をわが家の下働き程度に考えている気風からは、自治の意識が育ちにくい。自治意識なき市民からデモクラシーは生まれないし、育たない。

 地方議員も市民からやられっぱなしではない。市民が何ごとかについて、少々の頭数を揃えて陳情しても、議会で審議するとなれば、これは公=市民全体の問題であるからとして容易に受け入れない。まして、自分の支持者でなければ尽力する義理はない。地方議会における古色蒼然とした権威主義が話題になるのは、公僕たる市会議員の市民に対する報復みたいでもある。

 こんなことを書いていると、話の程度がどんどん落ちる。「政治家も政治家だが、有権者も有権者だ」というような構図にならないようにしたい。

解散含みの政局

 菅政権の成立直後、新聞各社の意識調査による内閣支持率は60%程度であった。わたしは、ご祝儀相場にしても高すぎると見る。もちろん、誰でも政権が代われば新たな期待をもって接するだろう。人情的期待値だと見れば、誰が政権を担っても当然かもしれない。

 ただし、菅氏は安倍政権を支えた屋台骨の官房長官である。安倍政権をざっと眺めた印象評価として見れば、30%程度が妥当だろう。多くの新聞が、安倍政治を総括せよと主張した。菅氏は、全面的に安倍政治を継承するとして、時期首班の正当性を主張したのだから、意識調査(世間常識を代表しているとすれば)によれば合格点が与えられた。菅氏は、自身の内閣支持率が高かったことに大安心したはずだ。ご祝儀に浮かれてほしくない。

 安倍氏の突然の不本意な! 降板を、自民党内においてさして残念がる雰囲気がなかったのも不思議であるが、コロナ騒動に対する締まりのない取り組みからして、この辺りが潮時だと見ていたのに違いない。

 さらにモリ・カケ・サクラは、自民党にとって何とか忘れてほしい傷である。それらを再調査するような総裁候補は断固排除しなければならない。派閥の細田派・麻生派は安倍氏と一蓮托生であるから尚更である。菅・二階共闘が手際よく事態を進めてくれたのは痛し痒しでもあるが、まあ、致し方ない。

 20世紀であれば、政権たらい回し批判が出た。談合政治だという批判も出た。今回は、さらっとしたものである。遠からず総選挙は避けられない。安倍的暗部に当たらず触らず、選挙の顔になる人物であれば誰でもよろしい。当初、菅氏は選挙の顔としては心細いというのが自民党内にかなりあったが、高支持率によって、とりあえず万々歳ということであろう。

 当面の戦略は、ご祝儀人気が陰らないうちに、解散・総選挙に打って出たい。臨時国会を10月23日か26日に開会するらしい。ならば、コロナ感染拡大の収束が最大の鍵を握っている。神風ならぬコロナ風邪が政局を左右するかもしれない。解散の理屈は、安倍政治を継承することの是非を問うことでも何でもいい。来年、衆議院議員の任期切れ解散よりも有利であればよろしい。

政治的リテラシーを

 ざっと100年前、幽黙(ユーモア)居士を自称した林語堂(1895~1976)は、「デモクラシーか? デモクレージ―じゃないか」(democracy⇒democragy 造語)と駄洒落的におちょくった。昨今の時世を見事に切り取っている。

 11月3日の大統領選挙で劣勢を報じられるトランプ氏は、幻想的ミステリー作家ばりに、「郵便投票で選挙の公平性が疑われる」と執拗に吹聴して、選挙結果を受け入れるかという記者質問に対して言明を避けている。バイデン氏は、トランプ氏がホワイトハウスに居座ったら、「軍が引っ張り出すだろう」と語る始末で、ユーモアどころかガキの陣地取り遊び並み、クレージーである。

 9月24日には、共和党のマコネル上院院内総務が、(誰が勝利しても)「来年1月20日の大統領就任式が行われる」とツイートしたが、これが世界最高のデモクラシーだと自他共に認めていたアメリカの事情である。デモクラシー政治の手続きは公明正大な選挙によって始まる。トランプ氏が敗けても認めないというのは、ベラルーシのルカシェンコみたいだ。米国大統領の職にある人間が取る態度でないのは言うまでもない。

 トランプ氏が大統領になってから、アメリカのデモクラシーは崩壊の道を辿っている。ところで、日本はどうか? 安倍氏はトランプ氏と親密な関係を演出して、日米同盟に多大の成果を上げたそうだが、本気でそう考えるのであれば、その負け犬的精神状態は敗戦時以下の屈辱である。屈辱を屈辱と考えないのは、もちろん1つの問題解決法だ。見るべきことを見なければこの世は天国である。自尊心なく、かつ、おめでたい。やはりクレージーだ。

 くれぐれも、日本にはトランプがいなくてよかったなどと考えないようにしたい。トランプ氏のようなド派手な立ち回りをする大物役者! が存在しないだけで、明治以来の日本人的な――小才を利かせた小細工主義・事大主義・軽佻浮薄・事なかれ主義・権威主義・官僚主義――などは健在で、いま、世界的潮流ともいうべき、デモクラシーの奇妙な転回が続いている。

 デモクラシーの奇妙な転回とは何か? 単純にいえば、デモクラシー的化粧をした独裁政治である。デモクラシーは、もともと専制・独裁政治に抵抗して生まれ育った。その母体がリベラリズムである。つまり、個人の自由・個性を重んずる。はじめに国家ありきではなく、個人が集まって社会・国家を作っているという考え方である。

 はじめに国家ありきであると、個人の自由が束縛される。個人の自由の束縛は、言論・学問・思想・宗教などの面で著しかった。だから、デモクラシーにおいては、それらの自由を根源的・生命的原理とする。この理論からすると、一党独裁はデモクラシーとはいえない。だから、欧米や日本は中国を独裁政治とし、デモクラシーではないと批判している。要するに、独裁ではない、反独裁であることがデモクラシーの条件である。

 ナチスの独裁は誰でも知っているだろう。その矛先は議会政治の否定にあった。いわく、議会がまともな議論をしない、議会が堕落している、それゆえ議会を超越した党であるナチスが「決める政治」をおこなうというわけだ。この間の日本的政治は、巨大与党によって、議会が有効に機能しない状態が続いた。安倍氏が突如辞任したから政治的空白が生じたのではない。安倍政治の8年間を概観すれば、後になるほど議会の機能が阻害されてきた。

 首相を巡るスキャンダルを取り繕うために官僚が大活躍した。政治家も官僚も国民に奉仕する立場であるが、官僚は政治家に忠誠を尽くし、政治家は国民に奉仕するのではなく、権力の座にあぐらをかいている構図である。政治家・官僚が国民に対して奉仕しない事態を独裁制というのである。ナチスのような大立ち回りはないが、政府与党がやっていることの本質は同じである。

 菅氏が、「自助・共助」を「公助」の前に持ってきた。菅氏はじめ政治家は、国民の「自助・共助」のお陰で政治家しているのである。そのお陰をかたじけなくちょうだいしている菅氏が、国民に向かって「自助・共助」を説くのは、社会通念では「恩知らず」といわれる所業であり、政治的に見れば、国民を権力・権威で見下していることになる。成り上がり者に多い態度であるが、人々の公僕である政治家なので具合がよろしくない。

 自由公正な選挙で選ばれた者が、彼らの権力を制限する憲法を無視した発言や動きをするのは、強権政治であり、デモクラシーの看板を掲げて専制をおこなうのと等しい。議会政治が行き詰まるのはデモクラシーが崩壊する方向にある。リベラリズムを平然と批判する自民党議員は、デモクラシーがわかっていない。デモクラシーの制度があっても、行政によって崩すことは十分可能だ。

 わが国政治を見るために、デモクラシーの精神につねに照合しつつ動きを観察するべきである。今回記したささやかな理屈が理解できないとすれば、わが国のデモクラシーは、敗戦以前の段階にあると言わねばならない。そうでないことを期待する。


奥井禮喜

有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人