はじめにコミュニケーションありき
わが国において、コミュニケーション(communication)という言葉が、人々の口の端に上るようになったのは敗戦後である。75年程度の歴史があることになるが、果たしてコミュニケーションは定着したのであろうか?
「社内のコミュニケーションが悪い」という指摘をしばしば耳にする。逆に「社内のコミュニケーションがよい」という話はとんと聞かない。そこで「コミュニケーションを改善しよう」という問題意識が常時発生している。
コミュニケーションとは、――社会生活を営む人間の間におこなわれる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする――(広辞苑)とある。これは、だいたいは理解されているだろう。ただし、この内容は形式のみであって、中身が不十分である。
「おはよう」キャンペーンが、しばしば展開される。朝出社して帰社するまでほとんど口を利かないとか、不愛想な人がいる。これでは職場の人間関係を維持するためによろしくない。朝、顔を合わせたら大きな声で快活に「おはよう」と言おう。小学生の通学路にも、あいさつ運動の立て看板がある。これらは、それなりに意義があるが、短絡的で、訓練的である。「おはよう」と挨拶を交わすようになったとしてもコミュニケーションの本質は理解できない。
コミュニケーションは訓練ではない。コミュニケーションの何たるかを理解できれば、あいさつ運動など無用である。実際、コミュニケーションの本質が十分に理解されていない。だから、「コミュニケーションがよくないんだよな」と言葉を交わすけれども、たいした改善策が取られない。
第一に、コミュニケーションがなければ社会が存在しないのである。ヨハネによる福音書では、冒頭に、――はじめに言葉ありき――が登場する。これは、もちろん神の言葉の意味であり、それに基づいて生きなさいという。ところで、神の言葉と前提しなくても、これは有効である。人間が社会を作ったのは異なる2人の間で、双方の意思が通じたからだ。言葉そのものはまだできていなかったにしても、双方の意思が通じた。言葉とは意思の表現ツールである。
意思=言葉が通じたからこそ、最初の社会が形成された。——想像してほしい。言葉が徐々に作られていく過程で、お互いの意思がより円滑に理解できるようになる。言葉を交わすことが嬉しくて楽しい。言葉がなかった当時、人が孤独を感じていたかどうかはわからないが、言葉を介して意思が通じて、連帯感が――暗黙のうちに――体験的に理解されたであろう。社会を作っている最大の要素はコミュニケーションである。
* 相互に意思が通ずるから連帯感が沸く。会話している同士の間で、意思が通ずる喜びを体験しているだろうか? 会話は、片方が単に説明することではない。まず、テーマがきちんと共有されねばならない。組合のオルグが成功しにくいのは、前述の理解ができていないからである。
逆にいえばコミュニケーションが捗々しくないのは、大変深刻である。その社会が発展的に継続できるか、あるいは次第に活力を失って解体に向かっているかの境界線上にある、と考えねばならない。「はじめに言葉ありき」(聖書はこの意味で使われているのではないが)と「はじめにコミュニケーションありき」は、いつの時代にも、社会を健全に育てるための原則である。
とんでもないコミュニケーション状態
デモクラシーと同様に、コミュニケーションも敗戦後75年を経た。デモクラシーがいまひとつ絢爛と花開かないように、コミュニケーションもまたすっきりと成長していない。デモクラシーは憲法をはじめ各種の法律があって制度化されている。コミュニケーションは、憲法よりは人々の口に上る言葉であるが、制度化されてはいないし、極めて抽象的概念である。
デモクラシーの本質は、誰もが自分の自由な生き方を追求したいのだから、自他共に各自の生き方を自由に追求することを、お互いに認め合い、協力するのである。共生こそデモクラシーの精神である。そして、自由を求める心がリベラリズムである。お互いが認め合い、協力するためにはコミュニケーションが不可欠である。つまり、リベラリズム・デモクラシー・コミュニケーションは一本の道筋である。かくして、自由闊達なコミュニケーションを成立させている人々はデモクラットである。
* 自民党には、リベラルを左翼呼ばわりして敵視する人が多い。議会で真っ当な質疑が成立しないのは、リベラリズム・デモクラシー・コミュニケーションの道筋を理解していないのである。だからデモクラットではない。
敗戦後75年を経たのに、日本人はなぜコミュニケーションが下手なのだろうか? そこで、敗戦までの軍隊の事例を振り返りたい。なぜ軍隊なのかというと、もっとも組織らしい組織が軍隊であり、徴兵制によって多くの人々が応召し、そこで骨の髄まで軍隊組織の精神を叩きこまれた。一方、戦前の会社組織は、よほどの会社でないかぎり、管理システムが整備されておらず、極論すれば組織論は軍隊に行き着く。また、敗戦後の会社組織で、会社再建の柱となったのは、大方は軍隊のメシを食べてきた人々であった。
満州事変(1931)から敗戦(1945)までの戦時において、社会における軍隊の存在感は大きかった。「満蒙は日本の生命線」という言葉は瞬く間に人々の頭に叩き込まれて、小学生でも口にした。1937年、支那事変(日中戦争)が開始すると、「支那軍の暴戻を膺懲する」という。
* 暴戻(ぼうれい)——乱暴で道理にもとる。膺懲(ようちょう)——征伐して懲らしめる。
人々の中に、「なぜ抗日運動が根強く続けられているか」という疑問が起きない。正義の日本軍に刃向かうのだから匪賊だと、頭から決めつけるのみであった。そして、大東亜戦争が開始すると「鬼畜米英」といわけだ。戦争は国と国との間でおこなわれる。国を作っているのは1人ひとりの人間である。こちらにだけ正義があり、相手は正義に刃向かうのだから人間ではないというような、理屈がなければ戦争できなかった。まことに恥ずかしい話である。
さて、とりわけ陸軍の存在感は大きかったが、お国のために戦ってくださるから感謝という声の一方、批判もまた相当なものであった。陸軍は「陸軍第一・国家第二の厄介物」だという隠然たる批判があった。陸軍は、外部に対しては徹底的に陸軍第一であるが、内部では3人寄れば派閥ができる。敗戦後から今日まで政党内部の派閥に対する批判があるが、陸軍の派閥はそんなにヤワではない。いまならトランプ流の敵と味方の峻別が軍隊組織を支配していた。
換言すれば、組織というよりも徒党である。いくらでも美辞麗句を並べられるが、大東亜戦争以前、軍人と右翼によるクーデターが絶え間なく続いたことを見れば、そこには言葉の世界がなく、力と欲望のみが支配していたことがよくわかる。他者と連帯する精神がないのだから、「話せばわかる」と制しても、全くブレーキがかからない。
軍人諸君は正義をかざし、真っ当な言論を吐いているつもりである。しかし、騙されやすく、権威に弱い庶民とは異なって知識人らに対しては、陸軍としても油断できなかった。その代表的人物が東条英機(1884~1948)である。
近衛内閣の政権放り出しの後、1941年に東条英機が組閣する。敗戦後、拳銃自決に失敗して庶民からボロクソいわれるまでは、東条の人気は抜群だった。とにかく、忙しい忙しいと言いながらしょっちゅう人々の中へ顔を出して演説する。強面の本心は、人気取りである。人々の気持ちが恐ろしいのである。戦争末期、戦争指導部は敗戦必至を十二分に理解しつつ、容易に方向転換できなかった。その理由は、軍隊の下部や庶民が革命を起こすのではないかという恐怖感である。自分の性根を知っているから、他者を心から信頼できない。
東条は軍人であるが、いまならポピュリズム政治家の典型である。町へ出て、衆目の中でゴミ箱をのぞく。人々の生活事情はどんなものかというわけだ。人々は食料不足でピーピー嘆いているのだから食べ残しなどあるわけがない。にもかかわらず、その庶民的! ポーズがうけた。東条も軽いが庶民も軽い。見てくれ人気が人々の気風を支配しているのは、いまも全く同じである。
演説に際しては、必ず「不肖わたくしは——」が出る。不肖とは、愚か、取るに足りない人物である。日本人の典型的なへりくだりであって、ポーズだけである。「あいさつ」と等しく、まったく中身がない。不肖だと認識している輩が、首相として内閣を組織し、陸軍大臣・内務大臣を兼任し、太平洋戦争を開始した。やがては参謀総長・商工大臣・軍需大臣をも兼務する。
巷では、対空襲防火訓練を指揮する町内会のおっさんが、「不肖わたくし」を連発して、指揮をとることの僭越をお詫びする。その舌の根が乾かぬうちに、突然軍隊口調になって、「おい、こらしっかりせんか!」と怒鳴りつける。映画『三丁目の夕日』に描かれた牧歌的な町内の思い出よりも、不愉快な戦時町内会の理不尽さの記憶のほうが強いから、大正生まれの世代は、戦後、町内会に入りたがらなかった。
東条は、いわゆる実力者に対する配慮が並外れていた。贈り物作戦である。高松宮には外車を贈った。会議など開けば、宮内省・侍従職・枢密顧問官などには洋酒ウイスキー・外国たばこ・外国洋服生地などを贈った。資金の出所は陸軍機密費である。困惑した高松宮が外車を返そうとして苦心した話も残る。真実を話して相手に理解してもらい、状況を共有するのがコミュニケーションであるが、人間関係をうまくやって支持してもらいたいという作戦である。
人々の前に出て「不肖わたくしは」とやるのが本心であれば、首相を拝命することが身に余る光栄どころか、はるかに実力を超えた重荷で、厳しくいえばペテン師である。愚公山を移す(列子)――のは、お話であって、不肖のごとき人物になせる業ではない。事実、日本はあと一歩で崩壊するところまで追い込まれた。
もちろん、東条の本音は不肖だと思っていない。権力さえ掌握すれば、人々は唯々諾々と従って当然である。自分に実力があろうがなかろうが、知ったことではない。自分が権力者であるという事実以外に何も配慮することはない。もともと人間が自由であり、平等だというような考え方がないのだから、権力の地位につけばオールマイティだと思い上がる。
皮肉をいえば、不肖たちが戦争指導したのだから、敗北して当然である。しかも、幸いにも食い止められたが、不肖たちは、「焦土作戦」を考えた。ナポレオン(1769~1821)が、1812年にモスクワに遠征した。第二次世界大戦ではナチスがソ連を攻めた。いずれの場合も、ロシアの人々は町を焼いてどんどん撤退した。広大な大地と気候に阻まれて遠征軍は手痛い敗北を喫した。ところが、日本が焦土作戦をやっても、人々が逃げる場所はない。
『戦争論』(クラウゼウィッツ)を持ち出すまでもなく、戦争が外交の1つの局面であることは、いまの人たちは誰でも知っているだろう。しかし、大東亜戦争当時の日本人の大方はそんな理屈を考えたこともない。たまたま満州を植民地化し、勢いに乗じてさらなる国土拡張を狙って暴れたのであって、真珠湾攻撃の成功! に酔いまくり、それがどのような外交展開に結びつくのか考えもしない。鳥肌が立つ思いである。
さてそこで、大東亜戦争開戦の目的を考えた国民がいただろうか? 宣戦の詔書によれば、第一に、全国民挙って1つの心で征戦の目的を達成せよ。第二に、開戦相手は米英であり、蘭は省略し、すでに交戦中の中華民国については対象から外している。第三は、戦争は、自存自衛のためであり、東亜永遠の平和を確立し――とある。早くいえば「お国のため」という抽象的な言葉だけで、230万人が召集されて戦場に散り、80万人が戦災に斃れた。
東亜の平和を破壊してきた主体が日本である。なによりも、戦争の目的がわからない。ただ、戦争あるのみというに等しい。戦時という非常時であるから、国民が目的のために気持ちを1つにして協力体制を確立する。それは当然である。戦時こそ国民全体のコミュニケーションが問われる。しかし、権力者の頭にあるのは、人々は権力に黙って従えばよいということしかない。
目的が明確でない戦争に召集された人々は大変な迷惑である。なぜ、何のために自分が命を懸けるのか――これに対する答えは「国のために」のみである。まして、軍隊における暴力・リンチの行為に苦しめられた。有名な暴力・リンチ行為の狙いは、ひたすら上官の命令に従い、眼前の敵を倒すことしか命を守るすべはないことを身体に叩き込んだのである。
まともに考えるならば、命を賭して戦う以上、大事なことは、いかに合目的的に戦うか。仲間との協力協同に勝るものはないから、いかにしてチームワークを構築するか。ところが、縦社会の軍隊においては、上からの命令に従って機敏に対応すればよいという考えであって、協力協同の知恵や力を出すことではない。あるのは上意下達のみである。これでは将棋の駒だ。協力協同のためのコミュニケーション(言葉がなかったとしても)が極めて重要であるが、そんなものには目もくれない。
軍隊の足並みは揃うものである。問題は揃え方である。上意下達で命令して鋳型にはめこむか、メンバーが目的を理解して、各人が意志的に揃えようとするか。結果は同じでもモラル・モラールには天地の違いがある。
海軍のエピソードである。たまたま米軍ハワイ・ホノルル基地の電信兵が、ガダルカナルの仲間にジョークを飛ばした。「Hey Jim, I’m sleepy now」——これを傍受した日本の通信隊は、「米軍の士気はちかごろとみに弛緩しあり」と報告した。
戦時に、ユーモアを語り、ジョークを飛ばす余裕があるのは、仲間内の気安さのみとどまらず、軍隊全体に対する信頼感の現れである。もし、コミュニケーションのなんたるかを知っていたならば、弛緩しありどころか、相手は余裕綽々である。後世代の知恵ではあるが、対する当方の余裕のないことに思いを馳せると、戦地に出向かれた人々のやりきれなさが偲ばれる。
1つの救いは、海軍兵学校においては、規律よりもゆとり、ユーモアを推奨していたことである。しかも、兵士教育ではなく、人間教育を標榜した。紳士として育つように励ましたのである。ところで、今日の教育はいかがであろうか? 子ども時代から点取り虫教育が花盛りで、長ずるにしたがってよい大学へ、良い会社へ入ることが最大の眼目である。学校の規則などはますます細部にまで規定が及ぶ。規律よりもユーモアというような方針の学校があるだろうか。これでは紳士淑女は育たない。
ゆとり、ユーモアというものは1人でにやにやするものではない。まさに、コミュニケーションが成り立っている人々の間のものである。人間として、紳士淑女たる精神を育てるような教育がなく、席取りゲームのような教育をしているのであるから、コミュニケーションが日常的に体得できるわけもない。
コミュニケーションを妨害するもの
敗戦後、人事管理システムがようやく導入されるが、それらは英米からの輸入品である。人事管理思想自体が、デモクラシーの思想の具体的展開である。しかし、会社内には戦前思想が色濃く残っていた。企業一家主義の考え方が長く支配した。それは封建社会の残滓である。
会社といえば親も同然、社員といえば子も同然――であるから、賃金闘争でストライキをするなんてことは、親に対して、子が弓引く行為である、人の道に外れる。こんな意見が飛び出すのである。さすがに軍隊のような鉄拳制裁はほとんど見られなくなったが、上司・先輩の立場は絶対だとする気風も強かった。真面目な軍隊帰り! は、ガツンとやれないことを赤提灯でしばしば嘆いたものであった。
制度が変わっても、人心は容易に変わらない。ようやく、敗戦後に輸入された管理システムへの戦前的抵抗が薄らいだのは1960年代である。70年代は一種のニュートラル的期間であった。当時は、現業労働主体から管理的労働への転換期に入っていたが、欧米輸入の管理システムを乗り越えて、日本にふさわしい管理システムを構築し得たかというと、残念ながら不十分であった。
のみならず、80年代にバブル経済を迎えると、管理が極めて雑になる。さらには90年代初頭にバブル崩壊すると、雇用不安を背景に、一挙に指示命令型の古い管理スタイルが目立つようになった。進歩的に考えれば、苦境時こそ、全方向的に組織の風通しをよくして、オープンな雰囲気で活動するのが望ましいが、実際は、上意下達の押し付け管理が復活した。
すでに、戦前型の管理ならぬ管理時代の意識にある人々は会社を去っていたのであるが、意識の底流にあるものがむくむく頭をもたげたのである。企業活動が苦しくなって、従来おこなっていた進歩的な教育研修がほとんど姿を消した。単純にいって、今日の企業における管理の気風は、90年代以降の不具合なものがそのまま残っている。
今年は、コロナ騒動が発生して世界中が大騒動である。そこで、「新常態」であるとか、「働き方が変わる」とか、なかなかにぎやかでもある。コロナ騒動自体が収束する見込みがない事情において、新たな常態を想定するのは早計である。立ち位置が不安定なままに一足飛びに「新常態」を模索するべきではない。現状に対する施策を可能なものから1つひとつ試みるのが上策である。
たとえば、ITツールを中心に据えるのはよくよく考えねばならない。10年前と比較してみればよい。いまや、スマホがなければ生活が成り立たないと思う人は少なくないだろう。さて、今、手にしている便利な生活は、それがなかった時と比較してどのくらい生活の質を向上させたのであろうか? ツールを駆使しているはずが、ツールに使われている面はないだろうか。
SNSが大流行りだが、本当に気の置けない友人ができただろうか? なるほど世間の雰囲気がこんなものかということはわかるとして、わかってありがたいという中身があるのだろうか? 意見表明(といえる代物は少ないが)しっぱなしで、ただ発散するだけですがすがしいのであろうか? むしろ社会的コミュニケーションは悪化しているのではなかろうか。
概して人は、他人がどう思っているか気がかりである。ある問題について、他人が意見表明する前に、自分の意見表明をするタイプの人は多くはない。しかし、SNSでは、極端なものが多い。自由闊達であるのはよろしいが、匿名でしかできないのは臆病者の仕業である。
匿名が輝くのは他人を誹謗中傷するときではない。困っている人や苦しんでいる人に手を差し伸べる場合にこそ輝くのであって、暗闇からポカリとやるのは卑劣者の仕業である。ネット上で問題発言が多いのは、社会的雰囲気が好調ではないからであり、匿名で発散するのは、日ごろ直接対面している人々との関係においてコミュニケーションが稚拙なことの反映である。
個別の人格 それぞれの意思
社会の成り立ちを考えれば、あらゆる社会は、1人ひとりが作っている。会社・組合という社会も同じである。はじめに国家ありきと考える(=国家主義)から、1人ひとりの人権が軽視される。1人ひとりが社会を作っているという根本原則を忘れるから、コミュニケーションを人間関係維持のためのツールとして考えてしまう。コミュニケーションは社会の前提である。
なぜ人間関係維持を優先するとよろしくないか? 古い夫婦によれば、結婚生活を維持するコツは、お互いが我慢することだという。我慢の一般的パターンは、黙して語らない。以心伝心といえば恰好はつくが、大方は言いたいことを言わずに平和! を維持する。平和は維持されているとしても、結婚の精神(=連帯感)の出番がない。
古い夫婦のように、人間関係維持のために沈黙しているのが大方のコミュニケーション事情であろう。異なる人格をもつ人同士だから、ものの考え方が完全に合致しない。だから、口を開けばコミュニケーションがよろしくないとぼやくわけだ。それを前提して、ある問題について率直に意見をやりとりする。関係者間に問題が共有されていれば、意見交換を重ねるごとに愉快になる。
コミュニケーションの不都合は、関係者間に問題が共有されていない場合が多い。会社では上司が、部下は黙って俺に着いてくるのが当然だと思い込んでいる場合が多いから、容易に問題を共有できない。上意下達が当然で、お互いの関係が非対等であれば、会話の土俵が整っていない。関係者間で、「人間的対等」意識が形成されているであろうか。
わたしの昔の職場は、技術者としてスーパーエリートと、そのはるか後塵を拝しているメンバーによって構成されていた。問題が発生すると、関係者が集まって、お互い納得するまで話し合う。いわゆる上意下達はほとんどなかった。自由に自分らしく生きたいというリベラルな人ばかりである。
大口径パラボラアンテナを開発設計する職場であり、苦労して完成させた制作物を眺めて、誰もがひそかに自分の貢献を誇り、さらにもっとリーダーシップを発揮したいと鼓舞した面もあっただろう。35年にわたって毎年職場の同窓会を続けているが、いまもその気風は変わらない。同窓生の誇りは、チームワークの質の高さである。
上意下達に加えて官僚主義の傾向が強いと、よいコミュニケーションが育たない。忖度官僚だけではない。あらゆる会社(組合も要注意)で官僚化が深まっている。鉄拳制裁がなくても、パワー・ハラスメントが少なくない。戦時中の陸軍的思考が蔓延しているのではないか。
K・ヤスパース(1883~1969)いわく、「機構は官僚主義によって運営される。その下で先頭に立ちうる者は自己存在を放棄した者である」。この言葉は含蓄がある。1960年代には、やがて管理システムがさらに深化するだろうが、利益至上主義や功利主義が組織理論全体を牛耳るようになって、個人が圧迫される。管理システムの悪しき強化によって、自由闊達な社会が失われるのではないかと危惧されていた。
孟子(前372~前289)に、「治於人者食人、治人者食於人」という一節がある。――人に治められる者は人を食い(養い)、人を治める者は人に食われる(養われる)――。魯迅(1881~1936)は、これを読んで、次のように思索を展開した。いわく、――治められて生きるには、生きていないことが必要である。治める人を養っていくためには、死んでいないことが必要である。――
これを読んで「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」という徳川幕府時代の支配者の思想を思い出した。支配されている側の意識を考える。――理不尽な支配を受けいれるには、その認識が死んでいなければならない。そして、支配者を養うためには生きていなければならないわけだ。ここでいう認識は、わたしが、わたしらしく生きたい、つまり、いまでいうリベラルである。
コミュニケーションがよろしくないのは、1人ひとりの主体者において、リベラルの認識が希薄なのではないか。それゆえ、必然的にデモクラシーの意識も高くない。アパシー(無関心)が、つねに話題になるわけだ。
自由に自分らしく生きる――という言葉は平凡極まりない。だからインパクトが弱いかもしれない。しかし、社会においてしか生きられない人が、自分の殻に閉塞して、積極的にコミュニケーションを取らない状態は、社会を作ったとき、自然に感じたであろう、「連帯」の喜びを失っている。人が自由になるのは社会においてこそであって、それ以外ではない。リベラル・デモクラシー・コミュニケーションの一筋の道をつねに念頭において、社会活力を引き出す活動を展開したい。
奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人。組合研究会2020⑩2020.09.09発表