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「新常態」? まだそのときではない

奥井禮喜

違和感があるコピー

 臨機応変というべきか、目端が利くというべきか、新常態なる言葉が登場した。「会わずに顧客開拓、ネット活用、営業新常態」とか、「中銀が金融緩和、カネ余り、不動産に追い風の新常態」とか、「テレワーク」「オフィス分散」、そして「新しい生活」云々。新常態とは構造変化が避けられないなかでの新たな状態という意味らしい。遅れては商機を損ずるという提案だ。

 ただし、構造変化というよりも、目下の事情に合わせてあたふたしているようにも見える。いずれはある程度落ち着いて、平衡状態が発生するだろうが、コロナ騒動の全貌はまだどうなるかわからない。走りながら考えるというのも1つの方法だが、急いてはことを仕損じる。少し頭を冷やしておきたい。

 ウイズ・コロナという言葉もしばしば聞く。これもわかったようでわからない。コロナと共存するというのであれば、そんなことは太古から当たり前だ。共存関係がどこかで齟齬をきたしたから騒動になっているのである。いまの事情は、旧状態が何らかの異変によって招いた不都合な結果である。なぜこのような事態に至ったのか、世界中の知恵を集めて研究するのが先だろう。

 自然界の生物は、それぞれが棲み分けている。その均衡が壊れるから、あちらとこちらがぶつかる。熊・鹿・猪・猿・狸その他が人里に出没して、田畑を荒らすのは、彼らの生活環境が破壊されたからである。これを援用すれば、コロナ騒動の発生は単なる天災ではなく、人災だという見方が登場する。

 なんとなれば人間以外の生物は環境を破壊しない。環境破壊はもっぱら人間の仕業である。人間が慢心して、利益・効率主義に邁進したことが招いた結果である。新常態もウイズ・コロナも、目下の騒動の原因を無視して突っ走るのであれば、所詮は旧状態の上に立っているのであって、構造変化などと御大層に形容するほどのことはない。

コロナウイルスが照らしたもの

 政治たるものは、たとえば自民党的表現を借りれば、「安全・安定・安心」であり、――国民の健康で文化的な生活をめざす――はずである。わが政府は、身分不相応の大国気分で軍事拡張にうつつを抜かしているが、拱手傍観的コロナ対策は、お粗末というしかない。超軍事大国のアメリカがコロナ騒動によって惨憺たる状況を呈しているのもまことに奇妙な光景だ。

 国民の健康で文化的な生活を軽視して、軍拡ゲームにうつつを抜かすような頭から、新常態が生まれるであろうか。コロナ騒動が、内外の政治家の無知蒙昧、無定見、無能による無責任政治の悪質さを露呈させた。彼らの多くは扇動家であっても政治家ではない。扇動家には問題解決の能力がない。何よりも、扇動家が牛耳る社会は病んでいる。

 アメリカは、ジョンズ・ホプキンス大学が2018年報告書で、脅威となるウイルスへの備えを勧告していた。しかし、無視された。感染症研究予算を縮小していた。国民保健サービス(NHS)をもつイギリスも同様で、予算が減らされ、政府が専門家の助言を無視したという批判が出ている。

 日本も同様の批判は避けられない。3T(Testing・Tracking・Tracing)で重要な役割を果たすのは保健所であるが、当初から人手不足で感染検査が受けられないという批判が強かった。医療機関も同様である。さらには5月連休以後も医療整備不足であった。

 ドイツのロベルト・コッホ研究所は、以前から民間機関とも連携して感染症対策を構築しており、感染拡大阻止に目覚ましい実績を上げた。備えがあったかどうか、この違いは極めて大きい。なお、中国の取り組みについては、矢吹晋『コロナ後の世界は中国一強か』(花伝社)に詳しい。

 コロナ騒動に対する行政の姿を見れば、「かけ声対策」というにふさわしい。「コロナに完全勝利して五輪を開催」というのが典型で、なんら裏付けがなかった。7月以降の感染拡大については拱手傍観、安倍氏は記者会見にも登場せず、野党の国会開催要求にも応じない。行政の対策について、ここまでの体験では合格点はつけられない。「安全・安定・安心」など、とてもとても恥ずかしくて口にできない事態である。

日本人的コミュニケーションに要注意

 新常態と似たような違和感をもつものに、社会的距離(Social distance)がある。なるほど、ヒトヒト感染であるから、物理的に一定の距離をおけば感染しない。ショーペンハウアー(1788~1860)にヤマアラシのジレンマという例え話がある。ヤマアラシ2匹が、寒いのでくっつこうとしたらお互いに針が刺さって痛かった。そこで離れたが寒い。またくっつくと痛い、離れると寒い――を繰り返しているうちに適度な距離を探り当てた。

 コミュニケーションに関する例え話である。人間同士は、中庸、礼譲の距離を保つのが大切というわけだ。これは、物理的距離や形式ではない。人間性の距離である。(精神的に)コミュニケーション能力が極めて弱い日本人(と、わたしは規定している)が、物理的にも距離をおくとなると、コミュニケーションがさらに劣化すると考えねばならない。

 ZOOMという便利なものがあって、離れていても会議はできる。飲み会もやれるというが、コミュニケーションの方法がまずくてコミュニケーション能力が低いのではない。コミュニケーションの何たるかがわかっていない可能性が高い。SNSが大流行だが、コミュニケーション能力が高まったという話は極めて少なく、匿名のツイートにいじめられたという話が多い。たとえば、会話する気がない2人が道具を介在しても話す気になるわけでもない。

 会議のほうはまだマシかもしれない。そもそも会議が多すぎて、大方の会議は提案されたことを了承するだけである。なおかつ、嫌な上下横と同席しないのだから精神的圧迫が少ないだろう。やってもやらなくてもよろしい(ちょっと言い過ぎだが)会議であるから、道具立てによって集まる手間が省けて逆に効果が上がるというものだ。

 社会的距離論は、パンデミックであるから仕方なく採用するもので、これを新常態と考えるのは感心できない。社会は、コミュニケーションが成立したからこそ発生した。「はじめにコミュニケーションありき」である。ひょいちょい道具立てで解決するような課題ではない。

判断するための知恵

 目下焦眉の急は、コロナウイルスについて可能な限り研究を深化させねばならない。たまたま自分の商売に関連する人たちが商機拡大をめざして提案するような新常態論などは、よくよく検討するべきだ。

 大概の人は、ものごとをきちんと考えて判断せず、なんでもよろしいから信じたいという傾向が強い。とくに日本的職場では、ものごとの思考経過を尊重せず、結論だけを急ぐ傾向が強い。浅慮断行ほど危ないものはない。

 ペリクレス(前490~前429)は、「われわれは信ずる。討議は行為を損なわない。禍は初めに蒙を啓かずして仕事を始めることだ」と明晰な見解を述べた。エウリピデス(前485~前406)は、「たじろがない目をもとう。論証が導くところはどこへでも進もう」と主張した。これまた大事なことである。紀元前5世紀半ばに、物理的世界における法則の一般概念がすでに確立したといわれる。「歩きながら考える」とか、「走った後で考える」という気風が強いのは感心できない。こうした先人の立派な言葉は、忘れたくない。

 大昔の人は、未来予測を神に期待した。神に代わって人々を導いたのが巫女的存在であった。今日においては、巫女に代わるのが科学者・専門家である。科学者・専門家の研究成果が真に近いのであれば、事態の予測が可能になる。その意味で、科学者・専門家の予測発言に注目が集まる。

 しかし、この間、印象に残るのは「三密」を避けるとか、手を洗う、マスクをする、社会的距離を保つというような話で、期待するご託宣にはまだお目にかからない。この程度であれば、失礼ながら大方の人が気づく段階であって、ありがたみを感じない。(不要だというのではない)

 コロナウイルスの発生源を突き止めようという世界的な取り組みすら歩調が揃わない。そればかりか、自国の感染拡大抑制がうまく行かない責任を他国に押し付ける。以前「政治を科学する」と語った政治家をメディアが嘲笑したことがあるが、政治家は全くまともなことを語ったのである。問題の起源を辿らずして問題の解決はできない。

科学者・専門家の役割

 科学者・専門家の社会的責任(=期待)は大きい。研究内容が不正なく質の高いものであってほしい。素人に対して分かりやすい説明がほしい。目下は科学者・専門家がSNSを通じて百家争鳴状態である。SNSは便利なようだか、目下は信頼性が高くない。

 個人としての発信が当然としても、個人としてだけではなく、学会や集団による合意として発表されないのが物足りない。そうでないと、あれも是、これも是というわけだから、結局はどれも信頼できないままである。科学的知見も組織される必要がある。

 科学的知見にたいして信頼性が低いということは、大きくいえば科学にたいする信頼の危機でもある。メディアには、もっと専門家を探して発掘してもらいたい。専門家が糾合してかんかんがくがくの論議をすることができてこそ社会的任務が果たせるのではあるまいか。

 政府が集める専門家は、常識的には当代一流の方々が参集されるのであろう。しかし、この間の疑問は、専門家の見解がいかなるものであるのか、どうも藪の中である。政権と近しい専門家を集めて、専門家の意見を聞いたという体裁を整えているという不信は以前から少なくない。未知のウイルスについて対策を立てる上で、いかに厚生労働官僚が優秀だといっても、それが必ず優先されるべきだという理屈にはならない。現実に、百家争鳴状態である。

 たとえば悪名高いGoToトラベルは、コロナウイルス対策と経済対策との二兎を追う過程で、明らかに経済対策へ傾斜した。大事な経済対策ではあるが、人々の生活重視こそが基盤である。経済対策即生活重視ではない。中途半端な政府のリーダーシップによって、専門家の意見はどこかへ霞んでしまっている。

 目下は、科学的知見が明快・明晰でなく、したがって政治家が対策を立案するのが極めて困難な状態である。その場合、多様な意見をもとに合理的判断をするためには、情報公開が極めて大事である。専門家会議の議事録を作っていなかったとかなんとかというような、極めて(悪しき)政治的性癖が支配しているのでは、政治に対しても科学的知見に対しても不信感が増幅するのみだ。

 概して、政府の助言機関に入る科学者・専門家は、頭に政権の政策推進の鉢巻きが巻かれているから、ものごとを根本に帰って議論しにくい。さらに科学者・専門家自身の「商売上」の関心もあろう。このような体質が構築されていると、今回のような「進行中の科学」に関する研究・検討が前進しにくい。

 とりわけ、危惧するのは研究者・学者の場合である。「学んで優なれば仕える=学んで余裕があれば士官する」(論語・子張)のようであればよろしいが、仕えることを通じてわが身の栄達を図るというような考え方であれば、学問的真実に拘らず、行政との親和性を優先して、さらに高める方向へ進んでしまう。

 これは、ご本人は栄達という利益があるが、大きく「学問の自由」を考えるとまことに危うい。政治が学問の上に立つのであるから、薫り高い学問の自由は消えてしまう。学問の自由は、思想・良心の自由と表現の自由を背骨として成り立っている。かつては、学園の自由=自治がおおいに話題になった。

 最近は、こん棒でどやしつけるような圧迫はないらしいが、政府が作る予算に紐が付けられると、真綿で首を絞められるようなものだ。加えて、学者が政府の助言機関に入って、人にも紐がつく。こうなると、学問の自由は表向きのことで、内側から崩壊させられている。

 話が脱線気味になったが、学問の自由・研究の自由がきちっと存在するのでなければ学問も科学も発展させられない。今回の専門家会議の在り様を見ていると、どうしても心配を打ち消せない。社会の力は、科学者・専門家が発信する専門的知識をいかに読み解くかによって高まる。目下の事情は、専門知自体が百家争鳴で定まらない。つまりは、人々は自分で賢い選択をするしかない。

 新常態にせよ、社会的距離にせよ、それらが意味するのは、要するに現状に対応するだけである。科学的というよりも極めて常識的な新語である。しかし、メディアを通じて発信されると言葉自体が強制力をもつ。それは、物理的な強制力のみならず、むしろ、人々が自分の頭で考える活動を暗黙のうちに統御する機能が大きい。これでは面白くない。

思索する習慣を

 いま、コロナ騒動において大切な視点は、現状における「強靭性」と、ある程度騒動が収束した時点からの「復元力」である。現状は、残念ながら全体の戦略がはっきりしていない。だから、「安全・安定・安心」の方策をどなたかに期待してお任せすることができない。

 この際、頼られるものは己のみというべきだろう。これは試練である。新しい状態を生み出すのは1人ひとりである。いろいろな情報が流れているが、確信がもてないのは仕方がない。このような場合に大切な態度は、可能な限り「真」に近いものを選択する力である。

 誰もが歴史のなかにある。歴史は、過去から未来へ流れるはずであるが、そのためには、未来から過去に向かう動き動きを押しとどめ、より、合理的な状態を作る見識を磨かねばならない。人間社会が、いつまでも蒙を啓けず、野蛮性に立脚しているのは、つねに過去に向かう動きがあるからであり、1つひとつの問題を明晰・判明に理解する態度が薄いからである。

 未来へ向かうためには思索しなければならない。「思索しなくても現象は見えるが、思索しなければ原因は見えない」のである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人