月刊ライフビジョン | メディア批評

被害者史観では世界から取り残される

高井潔司

 コロナ禍の中、参列者の規模は縮小されたものの、今年も広島、長崎の原爆投下の日、15日の終戦記念日に、犠牲者、戦没者の追悼式典がしめやかに執り行われた。新聞紙面でも、例年通り、大きなスペースを取って報道された。しかし、今年ほど虚しい記念日報道はなかった気がする。首相をはじめ閣僚たちに、追悼の思いというよりも、政治的な思惑と暴論が目立ったからだ。

 まず広島、長崎では地元首長をはじめ被爆者やその遺族などの強い核廃絶への願い、とりわけ核兵器禁止条約への署名、批准を求める声をよそに、安倍首相はそれに対して何ら具体的な回答を示さず、相変わらず「わが国は非核三原則を堅持しつつ、立場の異なる橋渡し役に努め各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしてまいります」と例年通りのあいさつに留まった。朝日や毎日は、首相が広島、長崎でほとんど同じ内容のあいさつだったと批判したが、あいさつが繰り返しだったということより、毎年繰り返されるこのあいさつが本当に実行されてきたのかどうか、メディアは検証し、批判すべきではないだろうか。日本が橋渡し役や対話を粘り強くやってきたことなど見たことも聞いたこともない。

 15日の戦没者追悼式では、朝日によれば、天皇陛下が「おことば」に「深い反省」を盛り込み、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うと述べたのに対し、安倍首相の式辞からは昨年まで繰り返し用いてきた『歴史』という文言が消えた。一方で、首相が外交・安全保障戦略を語る時に使う『積極的平和主義』が初めて盛り込まれた。アジアの近隣諸国への加害責任は今年も言及せず、戦後75周年の筋目のメッセージは『安倍色』が強くにじんだという。この朝日記事によれば、「積極的平和主義」とは、首相の6月の提起に基づき、NSS(国家安全保障戦略)の改定を議論している。敵のミサイル基地などを直接攻撃する「敵基地攻撃能力」の保有などを検討中だ。核廃絶には全く熱意のない首相が、「敵基地攻撃能力」などという危険で唐突な軍拡戦略を積極的に検討しようとしているのだから、危険極まりない。

 その戦没者追悼式をめぐる16日の読売社説を読んで、そのおとぼけぶりに、ちょっと驚いた。社説は天皇の「深い反省」について論及したあと、こう書いている。

 政府主催の式典が初めて終戦の日に開かれたのは、戦後18年に当たる1963年のことである。当時は戦争の評価が定まっておらず、池田勇人首相は式辞で『戦争への批判はともかくとして』と述べざるを得なかった。歴史認識はその後、特に近隣諸国との対立を招き、国内でも長く政治的な論争の焦点となってきた。戦後70年の安倍首相談話が先の大戦への『反省とおわび』を明確にしたことで、国民の広範な合意が形成された意義は大きい。首相は今年の式典で、「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものである」と述べた。これまで多くの首相が表明してきた見解であり、国民も深く共感するところであろう。1937年の日中戦争開戦から終戦後のシベリア抑留まで、軍人・軍属230万人、一般市民80万人の命が失われた。その一人一人の人生に思いを致し、平和への努力を不断に重ねねばなるまい。

戦後60年の小泉談話との歴然たる違い

 この社説を読むと、何だか安倍首相が歴史認識、「反省とおわび」について総括し、それが国民的には共感を生んだとなるが、本当にそうだった? と首を傾げた。第一、それならその「反省とおわび」をいつの間に放棄してしまったのか、読売社説はなぜそれを突っ込まないのか。そもそも歴代首相は、本当に「反省とおわび」に言及しなかったのか。私は新聞データベースでとりあえず戦後60年の首相の談話を調べてみた。

 「終戦60年を迎えるにあたり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し」で始まる談話は小泉首相時代のものだ。この談話では先の大戦では、300万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り…」としつつも、続いて「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します」と率直に「反省とおわび」を表明している。

 小泉談話から見ると、安倍首相の式辞は、「反省やおわび」を大きく後退させ、風化させようとしているのは明らかだ。安倍首相は謝罪や反省は繰り返す必要がないという。そうして風化と忘却に導こうとする。読売社説の「大ぼけ」はそういう罠にまんまとはまっている。

 それに、読売社説がしらっと潜り込ませている「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものである」との安倍首相の言葉は、のちほど触れる靖国参拝した閣僚たちもよく語るフレーズだが、よくよく考えてみると、全く歴史にそぐわぬ誤った認識であろう。論理的でもない。戦地で非業の死に散った人々は、「平和と繁栄」を願っていたであろうが、現実は誤った国策によって、「鬼畜米英」との無謀な戦争に駆り出され、その多くが必要な物資の補給も受けられず、疫病と飢えで亡くなった。その反省もなく、「今日の平和と繁栄は・・・」などという決まり文句など語るべきではないだろう。小泉談話はこの点でもこう述べている。

 「戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟(はいきょ)から立ち上がり、サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。如何なる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。我が国の戦後の歴史はまさに戦争への反省を行動でしめした平和の60年でありました」

 日本の戦後の平和と繁栄は、戦後の日本国民によって達成されたものだ。それは日々、意識し、行動することによって実現する。どの遺族も、戦争で亡くなった肉親の死が全く無駄な死であったとは思いたくない。その心理を逆用して、無責任な政治家は「尊い犠牲の上に築かれた」などと美辞麗句を繰り返すが、多くの戦没者は誤った国策を主導した戦争指導者の犠牲者であったことをしっかり認識すべきだろう。読売社説の困った点は、そうした安倍首相の後退に、われわれ国民が「共感」しているかのように、しらっと書きこんでいることだ。

傲慢な閣僚たちの靖国参拝

 こうした「戦争への反省と行動」もなく、戦争を主導したA級戦犯も合祀されている靖国神社を、何の躊躇もなく参拝する閣僚たちの発言にもあきれる。安倍内閣の閣僚が靖国参拝したのは4年ぶりだそうだが、朝日は参拝した閣僚の発言を比較的批判的に伝えていた。社説もそれをしっかりフォローしていた。

 高市総務相「国のために命を捧げられた方をどうまつり、慰霊するかは、それぞれの国民が判断することだ。けっして外交問題にしてはいけない。外交問題ではありえない」

 衛藤沖縄北方相「中国や韓国から言われることではない。そういう(報道機関の)質問の方が異常だ」

 この閣僚たちには、靖国参拝に反対している日本国民もたくさんいることを無視している。かつては首相の靖国参拝には、日本国内で違憲訴訟も起こされ、複数の裁判所で違憲判決も出た。2000年頃までの世論調査では首相の靖国参拝をめぐって賛否が拮抗していた。時が経つにつれ、そうした論議自体が風化され、まるで国内に反対論がないかのように、この閣僚たちは言い募っているのだ。この間、安倍首相は「反省とおわび」に触れないだけでなく、「反省とおわび」を「自虐史観」などと揶揄する“文化人”を重用し、歴史教育や世論操作を通して、国民の間の「加害者」意識をそいできた。

 閣僚たちはそもそもなぜ天皇家が靖国参拝を自粛しているのか、自問してみたらいい。閣僚たちに質問する記者達も、中国、韓国に代わって質問しているわけではないだろうから、なぜ反問しないのか。読売によると、衛藤大臣にいたっては、「国の行事として慰霊している」と強調したという。靖国参拝はいつから、「国の行事」になったのか、こんな暴論について、取材した記者は何とも思わないのだろうか。高市大臣の「どうまつるか、それぞれの国の国民が決めること」は結構だが、適切な追悼が靖国参拝であると、国民は決めていない。記者たちが猛暑の中、靖国に取材に出ているのは、こうした暴論をごもっともと聞くためではないだろう。無批判な報道ぶりを見ると、ひょっとすると取材する側にも、靖国参拝の問題点がわかっていないのかもしれない。これでは、閣僚たちの暴論は既成事実を積み重ね、国民やメディアからの批判を黙らせる世論操作の一環になってしまう。

 安倍首相にも閣僚たちにも「被害者意識」はあっても、「加害者意識」それに「誤った国策によって内外に多くの犠牲者を出した」という認識が欠如しているから、こうした傲慢な発言になってしまうのだ。読売社説にも加害者意識が欠如している。加害責任を踏まえた歴史観を「自虐史観」というなら、被害者意識しかない歴史観を「自己愛史観」と呼ぶべきか。日本人として辛いことではあるが、そこから出発しなければ無謀な軍事力行使によって、多大な人的、物的、精神的損害を与えた近隣諸国の警戒心を高めるだけだろう。

戦争ドキュメンタリーにも加害者意識が欠如

 被害者意識といえば、毎年、この時期、NHKが放送する戦争ドキュメンタリーにも、加害者の視点がますます薄れ、被害者の視点ばかりが目立った。最悪の番組は「“大悪人”の孫と呼ばれて 〜張作霖爆殺事件92年目の思索〜」だった。1928年、満州で起きた張作霖爆殺事件の首謀者・河本大作の孫が本当におじいちゃんは‟大悪人“だったのかと、関係資料や研究者、他の親族などにあたって事件を見直していくという物語。孫娘は研究者でもなく、全くの素人。戦後、事件をめぐるシンポジウムにゲスト出席して、研究者たちの話が全く理解できず、勉強を始めたという。河本が中国側の調べに対し、「満州駐留の邦人保護のために事件を起こした」という自供に勇気を得て調査にあたる。しかし、肉親の悪名を晴らすための調査など客観的であるはずがない。そもそも「邦人保護のため」という自供は、爆破事件の口実に過ぎない。「邦人保護」といっても、日本の侵略拡大によって、現地で抗日運動が起こるのはむしろ当然の流れである。その中で、邦人保護のためと称して中国要人を狙った爆破テロを引き起こし、それを中国側の犯行だと主張するのだからますます抗日運動が高まり、やがて両国の全面戦争へと道を開くことになる。そこにも「被害者意識」ばかりで「加害者意識」のない日本の姿が見える。それが無謀な戦争に導く導火線になっている。

 この事件では昭和天皇が爆破は関東軍の犯行ではないかと疑問を呈し、陸軍出身の田中義一首相に厳重な調査と処置を求めるが、田中は軍出身でありながら軍部を掌握できず、うやむやのうちに、河本を予備役にする程度でお茶を濁した。田中は天皇の信頼を失い、首相を辞職する。この事件は、その後の天皇を祭り上げ、その意向は無視するという天皇の神格化、軍部の独走のきっかけを作り、それが満州事変、日中戦争をもたらした。その首謀者なのだから、「大悪人」であることは自明だろう。彼の行動が軍の組織的犯行の一環で、軍に責任があるとしても、彼は「大悪人」の一人であることは間違いない。だが、この事件の責任はほとんど不問にされ、河本が率いる関東軍の犯行だったと公表されたのは東京裁判になってからだ。彼の存命中、彼は「大悪人」などと呼ばれていたわけではない。

 孫娘には、日本が「侵略者」であり、「加害者」であるとの認識がまるで抜け落ちているから、祖父の名誉回復などという歴史修正主義者のような時代錯誤的行動に出てしまう。こういう人物を追っかけて番組を作るNHKの姿勢が私には理解できない。番組は結局、親しいいとこから、「どんな理由があれ戦争はよくない」とたしなめられ、また研究者から、「河本一人の問題ではなく、陸軍という組織の問題だが、問題を大きくしないため、河本一人がその責任を負った面がある」という趣旨の慰めを受け、納得するという形でまとめた。

 煎じ詰めれば、私をかわいがってくれたおじいちゃんは、お国の為にやったんで、「大悪人」ではないと言いたいのだろう。そんな「いじめ」にあったとの声に同情し、番組を作ったのだろうか。「加害者」という視点に欠け、番組を通して何を訴えたいのか、焦点ボケの番組だった。「お国の為」といっても、その国策は数ある中から誰が決めたのか、その結果、お国の為になるどころか、内外に壊滅的な損害を与えた結果に責任は問われないのか?「お国の為」といえば、何でも許されるという発想はまさにかつての「全体主義国家」の発想ではないか。靖国参拝の閣僚と同様、そこには「全体主義国家」の発想が垣間見える。

NHKはナベツネ礼讃でいいの?

 8月、私にとってもう一つ辛いお話は、NHKが私の元勤め先、読売新聞社の大ボス、渡邉恒雄氏(通称ナベツネ)のインタビューを、NHKスペシャルとして放送したことだ。私は5,6人の友人から「あの番組はどう見ました。どこまで本当の話ですか」といった問い合わせをもらった。実をいうと、私はこのNHKスペシャルを見ていない。盛んに番組宣伝していたが、これはきっと今年2月から3月にかけてNHKBSで放送した番組を、焼き直して制作したコロナ対策用”スペシャル“と思い、見なかった。インタビュアーは、前回同様、いまやNHKの看板キャスターである大越健介で、まさかあらためてインタビューをやるとも思えないから、コロナ禍で新しい番組の制作が難しい中、前回の2回番組を1回に再構成して放送したのだろうと推測し、見る価値はないと判断したのだ。

 というわけで、私の感想は前回BSスペシャルで放送したものに対してであり、友人たちへは、元社員というより、彼自身が書いた『君命も受けざる所あり――私の履歴書』(日本経済新聞社)、『渡邉恒雄回顧録』(中公文庫)の読者として、回答した。率直に言って、このインタビューには何ら内容に新鮮味がなく、大越MCはナベツネの自慢話をごもっともごもっとも、いやすごい、すごいと、ひれ伏して聞いているのみで、突っ込み不足の内容だった。

 私に問い合わせてきた人たちは、ナベツネがあまりに赤裸々に舞台裏を明かすので、驚いたようで、よくぞここまで語った、よくぞここまで聞いたという思いで、だから本当なのか?と問い合わせてきたようだ。しかし、彼自身が書いたものの方が、もっと詳しく、舞台裏を明かしているかのように書いている。

 「明かしているかのように」というのは、私が入社した時、すでに彼は雲の上の人だったから、彼が語った政治や外交などの裏話の真相は知る由もない。ただ、知っているのは、彼はわざわざ彼自身のやってきた悪行の数々の舞台裏を語り、それで聞き手を引き込み、圧倒し、屈服させ、配下に引き入れていくという手法をとるということだ。ただし、舞台裏を明かすといっても、後ろに手が回らない程度に真相は隠しているに違いない。

 大越MCは、事前に彼の書いたものを読んでいるはずだから、そこから疑問点をあぶり出し、もっと突っ込んで聞いてもらいたかったが、インタビューを受けてもらっただけで感激してしまったのか、終始、聞きっぱなしだった。常識、良識を発揮すれば、記者として、明らかに道を踏み外している彼を、少しはたじろがせる質問、反問だってできたかも知れない。

 ごく常識的に考えて、彼がワシントン支局に飛ばされるのに、佐藤首相が餞別だといって、現在の読売本社ビルの建っている国有地をくれたという話に、違和感を感じなかったのだろうか。事実そういうやりとりがあったかも知れないが、もしそうだとして、そんなことを自慢している人が30年来トップを務め牛耳っている新聞社が、「モリカケ」問題を追及できるのだろうか――といった疑問が浮かばなかったのだろうか。独占インタービュー!などと番組宣伝するのは結構だが、問題はその内容だ。ごもっとも、すごいな!と感心ばかりしているのでは、ますます彼の神話を作るばかりだ。

 私の友人たちへの回答の結論は、「露悪趣味の渡邉氏にとって、こんなにきれいに描かれて、少々物足りなかったのでは」であった。

 安倍首相が28日に突然、辞意を表明した。ここまで批判してきた加害者意識の抜け落ちた歴史観を広めて来た張本人が安倍首相であるから、彼の辞任表明は喜ばしいニュースである。辞意表明を受けたテレビの報道ぶりは、志半ばの辞任に同情する声が多く、まあ私のような厳しい批判は「水に落ちた犬をたたく」のような非情な人間のすることであり、平和な日本では歓迎されないのも理解できる。しかし、辞任会見で安倍首相自身がいみじくも「政治において、最も重要なことは結果」と語っているように、政治は結果が全てである。例によって安倍首相というと必ず登場するNHKの女性解説委員は、「安倍首相は地球を俯瞰する外交を掲げ・・・」と訪問国の数やサミットの開催などについて紹介していたが、すでに述べた核廃絶をはじめ拉致問題、北方領土、日韓、日中関係など、安倍外交がどんな「結果」を出したのか、それをしっかり評価してもらいたい。それもせず、「北方領土について誰よりも彼が熱心だった」「拉致問題を最優先課題にしてくれた」などと、当事者の感謝の声を流していた。おそらくインタビューの当たり障りのない前半部分のみを放送していたのではないか。

 というわけで、今月のメディア批評も嘆き節のオンパレードになってしまったが、最後に口直しとして北京大学の銭理群教授(当時)が行った最終講義の翻訳をリンクしますので、ぜひご覧ください。これは約20年前に行われた講義だが、中国の微信の朋友圏というSNSで流れていたもの。すぐため息になってしまう私などと違って、いまだにそれが読み継がれているという知識層の息の長さに感心する。こういう講義が北京大学で行われ、読み継がれていることをどう評価するかは、読者のみなさんにお任せするが、銭教授の批判的精神は、権力への批判だけでなく、己自身の奢りや弱さにも向けられる内なる批判も含んでいるので、そう単純でない点を指摘しておきたい。

 銭教授は『毛沢東と中国〜ある知識人による中華人民共和国史』(邦訳・青土社)の中で、「現在の中国では政権側と反体制派がある種の観念、思考方式、行動の方法、感情のあり方、言葉使いなどにおいて驚くほど似ている」と述べた上で、「毛沢東文化に対する清算と批判は、一つの時代の民族の思想、精神、文化に対する清算と批判でなければならない。真剣に、深く切り込む民族の自己反省と自己批判をしなければ、中国が毛沢東時代の影から抜け出ることは、根本的に不可能である」と、体制への批判だけでなく、自身へと向かう批判が必要だと強調しているからだ。

 それは被害者だけの視点で物事を論じてはだめだという考え方に共通していると言えるだろう。


高井潔司  メディアウォッチャー / 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。