赤札体験
スーパーの食品に30%引きの赤札がついていると、日ごろ心がけているはずの「ちょっと待て、急ぐ一秒、怪我一生」の慎重さを忘れる。まあ、スーパーの商品の信頼性は高いから、衝動買いでドジを踏んでも、一瞬浮かんだ期待がはじけた程度の話で大した損害を被るわけではない。次は、赤札を見ても迂闊に手を出すまいと思うが、この教訓は長持ちしない。
信号は、青は進め・赤は停止なのであって、赤いものを見て突進するのは牛並みだ。人間は理性的でなくてはならない。
宅配に赤札が貼ってある。取り扱い注意である。さて、赤札が貼ってないが要注意のものもある。それが今回のテーマである。政治は「取り扱い注意」である。見えざる「赤札」について少し書きたい。
お茶の間政治
お茶の間政治という言葉が広まったのは、1970年代くらいからであろう。テレビの威力が大きい。突っ込んだ政治報道は多くない。話題になっている政治(社会面的なものが多い)を、出演者が、理論というよりも感性で、退屈しのぎ気晴らし的ワイワイガヤガヤで盛り上げる。評論家・学者らが理屈をこねるよりも身近に感ずるという効果があって、なるほどお茶の間的である。
60余年前、評論家の大宅壮一(1900~1970)がテレビを「一億総白痴化」と一刀両断した。一方、そんなことはない。テレビはおおいに世間を指南してくれる。いくらでも社会勉強ができると反論した人もいる。たとえば知の最前線に立ち続けた評論家の林達夫(1896~1984)である。両論相対立するが、いずれも正しく、かつ正しくない。どんちゃん騒ぎの中から大切なことを見抜く人もいるし、どんちゃん騒ぎ自体に気晴らしを求める人もいるからだ。
たとえばいま、政治というカテゴリーで考えて、大宅壮一的辛口が外れているか当たっているか。当時といまを比較して、日本人の政治的リテラシーや行動が進化したか考えると、社会勉強ができているとすんなり断言しにくい。たまさか人々は勉強するつもりでおられるとしても、わが政治的惨状を見れば、これが勉強の成果であるとは言いにくい。
養殖のアユ
稲葉修(1909~1992)という政治家がいた。新潟県村上市出身。高校でカンニング(和製英語 正しくはCheat in the test)して中途退学したが、1940年31歳で中央大学法学部大学院卒、5年後には同大学教授、のち62年には博士号を取った。政治家としては、49年に初当選した。新潟弁、訥々とした話し方で辛口のユーモアがあり、なかなか人気のある政治家であった。
稲葉は、三木武夫内閣(1974~1976)で法務大臣のとき、ロッキード事件で田中角栄の逮捕を許可した。田中派からは天敵のごとくに怨まれた。田中派にしてみれば、同県人でもあり、指揮権発動して逮捕させない手もあるだろうという義理と人情路線であった。
少し脱線するが——検察庁は行政機関であるから、法務大臣が指揮権を発動するのは可能である。しかし、個々の事件に法務大臣はいちいち介入しない。検事総長に対して概括的な指揮をするだけだ。検察の現場は検事総長が頂点である。賭けマージャン騒動がなければ、この7月7日に検事総長に就任したであろう黒川弘務氏に安倍氏が執心したのは、法務大臣に加えて、検察トップの人事をわが意中にしたかったからであろう。
目に見える指揮権発動は1954年4月21日、吉田茂内閣の当時、造船疑獄で、自由党幹事長の佐藤栄作を、検察が収賄容疑で逮捕請求した。しかし、法務大臣の犬養健(1896~1960)が逮捕請求を無期限延期、強制捜査を任意捜査に切り替えさせた。そして、犬養は辞職した。ろくな答弁ができない安倍氏であるが、叔父の先例から学んで、検察人事の掌握を目論んだと推測できる。
さて、稲葉は筋を通して田中逮捕の邪魔をしなかっただけではなく、新聞に「捜査は奥の奥までやる、神棚の中までやる」とコメントした。ために一部には「逆指揮権発動」だという見解もあった。
検察の公訴権は強力である。常に正しいという保証はない。公訴権は慎重かつ正しく行使されねばならない。庶民的視点で言わせてもらえば、政治家はじめ公権力の立場にある諸君に畏怖される存在であってほしいが、いかなる場合でも恣意的であってはならない。
釣り好きの稲葉に「最近の政治家は養殖のアユがうようよいる」という名言(?)がある。2世、3世、祖父や親の七光り世襲議員が増えただけでなく、政治家としての見識・性根が定まらない議員が多いことを嘆いた。さて、いまや天然アユらしき香りの高い政治家がいるだろうか。
「製品を作る前に人を作る」と語った松下幸之助翁が、松下政経塾を創設したのは79年、以降、政経塾出身者からは総理大臣もすでに出た。はたまた現ナマを配って公職選挙法で墜落するのも現れた。政治家を作ることは可能でも、品位のある政治家を作ることは難しい。学ぶ人の心がけ次第である。幸之助翁の心は、「政治家を作る前に人を作る」であったはずだ。
苔を食べないから香魚の匂いがしない政治家は、選挙上手で全身に苔が生えるだけの政治家になるかもしれない。すでに政治家になった人も、これからの人も、稲葉一言居士の言葉を噛みしめてもらいたい。
わが政治家に欠けているもの
職業政治家諸君は選挙で当選することばかり考えているみたいである。当選しなければ政治を直接動かすことができないから、選挙に熱が上がるのは当然である。しかし、その前に、自分はなぜ政治家をめざすのか。何のために政治家たりたいのか。この基本中の基本について性根を据えて熟慮してもらいたい。
作家の丸谷才一(1925~2012)は、「なぜ小説家になったのか?」という質問が多いのにカチンときて、「魚屋に、なぜ魚屋になったのか。八百屋に、なぜ八百屋になったのか、と聞くか」とぶつくさ言った。メシを食うためだと答えるのは簡単だが、それでは内なる誇りが許さない。このような自問自答をする、常に反省してわが身を立てる。これは、自分の仕事を通して他者と関わろうとすれば必ず直面する課題である。
「養殖のアユ」という比喩は、自分が政治家たる「Why」「What」を本気で考えているか、自分を売り込んで人々に選んでいただくからには、政治家に「なる」だけではなく、政治(家)を「する」のだという断乎たる心構えが必要だというのである。選挙が強いだけで、仕事をしない政治家を求める人はいない。
そこで、政治家として弁えなければならないことは何か? わたしが付き合っていた自民党議員の例を書こう。
某氏は、官僚出身である。法務大臣に就任して活動したがすでに引退した。某氏が引退後に書いた本を読むと、「基本的人権を主張する輩は左翼」であると罵倒している。某氏にはわたしらの勉強会で何度も講演をお願いしており、保守ではあるが民主主義の考えはしっかりしていると思い込んでいた。著書によると民主主義とは正反対で、筋金入りの国家主義であり、戦前政治への回帰願望が著しい。アナクロニズムである。法務大臣であったのだが!
某某氏もまた官僚出身で、こちらは現役である。某某氏の民主主義理論は極めて上等で、極論すれば野党議員の民主主義論よりも光彩を放っていた。某某氏は、自民党の2012年4月27日発表『日本国憲法改正草案』を作成した自民党憲法改正推進本部起草委員会メンバーの1人である。テレビ出演もかなり多い。自民党的改憲の話題には憲法9条関係がよく出されるが、改正草案を読むと、それに負けず劣らず、憲法を限りなく国家主義へ、基本的人権を軽んじようと工夫している。(某某氏だけの見解ではないが——)
わたしが非常に落胆もし、いささか憤りを感じたのは、2人とも憲法の知識は十分にあり、われわれへの講演では、国家主義の主張や、基本的人権に背馳するような話は全くなかった。もちろん、自民党が日本国憲法を変えたがっていることは大昔から知っているし、2人が自分の思想を持っていることも当然自由である。ただし、相手によって自分の政治的立場や持論を隠し、当たり障りのない話をするのは、裏と表のある二面作戦である。
たまたま2人とも官僚出身であり、その道の達人なのであるが、官僚ではなく、すでにれっきとしたベテラン政治家に話してもらったのだから、自分の考えを使い分けるのは感心できない。政治家の品位の第一は誠実でありたい。
なぜこのようなことが発生するのか考えてみると、彼らほどのベテラン議員においてさえ、政治を推進することよりも、常に自分が政治家として在ることに最大の関心が向けられているからである。政治家は「常在戦場」というが、露骨にいえば選挙で有権者の人気を獲得しさえすればよいのであって、この国の民主政治を根本から進化させたいという気風が希薄である。
実は、自民党に限らず、エリート意識の強い政治家は、基本的人権よりも国家主義のほうに傾きやすい。自分が「公」を代表しており、相手は「私」だという暗黙の認識が染みつくらしい。民主主義と基本的人権をきちんと理解していれば、議員という職業が「公僕」(public servant)であることを重々認識しているから、そこにエリート意識が介在する隙間はない。しかし様々な議員特権の中に身を委ねていると、「(公僕)-(僕)=(公)」になりやすい。
本来、「公」(public)は、国民各人がまとまった概念である。政治家が「公」だと思っているのは、政治家の私的な(公)意識なのであって、封建時代から脈々続く官尊民卑の「官」と相通ずる。かくして個人主義に立脚した民主主義のはずが、政治家の意識においては国家主義的民主主義という、頭が権力の恐竜で、身体が人間という怪物的民主主義になってしまう。生身の政治個人としては当然ながら(公僕)たるよりも(公)であるほうが気分はよろしい。選挙ファースト=エリート意識が強い政治家がはまりやすい落とし穴である。
そこから、政治家がもっとも大切にしている価値は、宣伝価値と煽動価値の2つになる。真剣真摯な政見を愚直に語るよりも、その時々に、いかに人々を引きつけられるかのほうが優先される。耳障りよいキャッチフレーズを並べるとか、おいしいそうな話で釣るという趣が強くなる。
都知事選で再選をめざす小池氏は、4年前の選挙で鮮やかな戦いぶりを見せた。「待機児童」「介護離職」「残業」「都道電柱」「満員電車」「多摩格差」「ペット殺処分」など「7つのゼロ」を掲げて強く訴えた。「都政の透明化」「五輪関連予算の適正化」といった刺激的主張も、有権者から多くの注目を集めた。大方は未達成である。ところが、今回の選挙戦では「ゼロはチャラ」で、違う木の葉を用意している。
小池氏だけではないが、政治家を志向する人は、人々を組織する方法に長けたならば全てよしという考え方に傾斜しやすい。そこには自分に対する限りない自信と誇りがあるらしい。一方、有権者たる大方の人々は政治的無関心である。無関心というのは日々の生活において、自分に対する無力感が支配しているからである。片や、みんなまとめて面倒みてやるというような全能性! にとらわれやすく、もう一方は、面倒みていただくしかないという調子になる。
大方の政治家は選挙でハッスルするほど政治活動でハッスルできない。政党という機構の中で右往左往するのが精々である。選挙は、自分が努力した分だけ票を獲得できるが、現実政治での得点は大方の政治家には縁が薄い。その点、安倍内閣のように政権維持を最大目標として政治を進めるのは、「養殖アユ」議員の政治活動にもっとも似つかわしい。なんとなれば選挙第一だからである。 長期政権の大半がかみあわない議論とアベノスキャンダルであった。与党の中から諫言するとか、反旗が翻らないのは「養殖アユ」集団だからである。
政治家が無意識のうちにせよ、政治活動=選挙活動だと信じてしまうような国の政治は発展できない。選挙のたびにスーパー的「赤札」がぞろぞろ登場する。大方の有権者はくすぐられて、ささやかであるが大きな期待をもって投票する。投票が終われば、有権者の価値はない。
スーパーの赤札は、しっかりした品揃えと、それを支える地味だが堅実なスーパーピープルの仕事があるからこそ値打ちがある。わが政治家諸君は、地味で堅実な仕事ぶりを評価されていると自負しているのだろうか。政治家は芸能人ではないのである。
政治家がおこなう政治自体が人々に評価されないかぎり、選挙は単なる人気投票にすぎない。ここに、お茶の間政治の落とし穴がある。お茶の間政治の観客は、ただ見ている、見たことを知っているだけで、政治の進歩に対する力になり得ない。1970年代には、アングラ劇場が花盛りであった。そこでは、舞台で演技する者だけが役者ではない。観衆は観衆という役者である。舞台の役者が挑発することもあるが、そうでなくても観衆が舞台へ飛び出すという事態がしばしば発生した。
テレビ世界の政治は絵空事である。おそらく、テレビ的お茶の間政治は、なんとなくわかったような心地になるだけで、本来の「政治を身近にする」という概念とは異なっている。大宅壮一の慧眼は過去のものではない。
民主主義自体が訓練である
巨大な宣伝・広告会社が政府・与党の宣伝を全面的に展開している。選挙だけではない。選挙の宣伝は欺かれる可能性が比較的少ない。一方、日常生活に忍び込んでいる宣伝は目立たないし気がつかない。これは始末がわるい。
報道機関などの意識調査もよほど要注意である。たとえば日経(6/22)は、固定電話で789世帯に質問して回答474件を得た。それによると小池氏が自民党支持者の80%を固め、無党派層の50%も固めて、大幅リードだと書く。有権者1,140万人に対して、789世帯(人)というのは0.006%でしかない。悪気はなくとも小池氏の提灯持ちをやっている。
日本人は概して事大主義が強く、KY気風に支配されている。街頭インタビューなど聞いても、ほとんど新聞報道の多数派らしいのに乗っかった発言ばかりである。報道機関の意識調査なるものが、好むと好まざるとにかかわらず、個人の「こうしたい」という考えを固める以前に、「世間はこうなんだ」という刷り込みを果たす危険性は極めて大きい。もちろん、それも含めて個人責任だとはねつけてしまえばそれまでではあるが——
あるいは、コロナ騒動において、人々は全面的に無力である。東京アラートの基準(?)が出されると、そんなものかいなという以上に人々は何も判断できない。ところが、都知事選開始の直前になると、突如、従来の基準はチャラになって、新基準を検討するという。先の基準はなぜ、どのように決まったのか? なぜ、その基準はチャラにされたのか? この問いにまともに答えられる人がいるだろうか。国も然りである、いろいろさまざま専門家なる方々が検討したことになっている。ただし、その内容はブラックボックスである。
政治は結果責任だというのは定説であるが、不祥事が追及されて逃げられなくなれば辞任する。いったい、辞任というのは責任の取り方だろうか。かの大東亜戦争の東京裁判で絞首刑にされた戦争指導部メンバーがいたが、それで責任が取られたと考える人はいないだろう。
いまの政権は長期であるが、実現した「有益な」公約はほとんどない。ロシアと北朝鮮との外交が典型的に証明している。無限に国債を発行し、日銀が引き受け、株式価格を維持することによってのみ好景気だというわけだ。この間の政治的空転の時間価値は到底測られない大きな損失である。
政治は結果責任というが、実は、政治における責任自体が取りようのないものである。だから、「わたしが責任者」「わたしが責任をもって」「わたしの責任」などなど、「責任」という言葉を排出する政治家は何もわかっていないのである。
コロナの一撃で、いかにこの国の経済と人々の生活が脆弱かということが露呈した。医療体制や医療に必要な器具・防具などが不足しているのがわかっても速やかな対応ができない。例によって、現場で働く方々の超人的長時間労働に頼るしかない。世界3位の経済大国の実態がこんなものである。
もちろん、コロナ騒動は予想していなかった。しかし、それに対して速やかに体制を整えられないことは、従来の政治の欠陥が示されたのである。では、いま、以前の体制の欠陥を分析して体制立て直しが進められているであろうか。政治家が、ありもしない自分のカリスマ性を演出することばかりにかまけている政治の日常性において、「養殖アユ」はただ太るだけである。
選挙にカネがかかることから、真っ当な政治をしてもらうために政党助成金が作られたはずである。それがどうだ、ご覧のように選挙違反を生み出した。不埒な政治的惨状を生み出しているのは、なんのことはない、よろしい政治を期待している国民諸氏である。——苦い笑いが漏れてしまう。今回の結論は次の通りである。――政治(家)は取り扱い注意である―-
奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行