月刊ライフビジョン | メディア批評

求められる「新常態」、改まらぬ「悪弊」

高井潔司

 新型コロナ肺炎の感染をめぐる緊急事態宣言がひとまず解除されて、「新しい生活様式」が求められている。感染拡大の過程で、「クラスター」、「オーバーシュート」、「ロックダウン」、はては「トウキョウアラート」まで様々な外来語を駆使してきた政府や東京都知事だが、「ニューノーム」だけは「新しい生活様式」、「新たな日常」、「新しい常識」、「新常態」などと翻訳され、それも定着していない。翻訳が定着していないのは、政治、経済、社会など各方面のトータルな、総合的な転換が求められているにもかかわらず、われわれの発想がそこまで対応できていないことを示している。

 黒川東京高検検事長と記者たちの賭け麻雀などはその典型だろう。いま何が起きているのか、当事者たちはお構いなしに、“常習”賭博を繰り返していた。問題が発覚しても、安倍政権は、相変わらずの「お仲間政治」で身内をかばい、甘い「訓戒処分」でお茶を濁した。それは法務省、検事総長が決めたこと、いや官邸が決めたと責任をなすりあっているが、それはとりもなおさず「甘い処分」だと認めたことだろう。まず「甘い処分」を撤回すべきだ。責任のなすりあいで、物事をうやむやにする悪弊がこの政権の特徴だ。

 そんな首相が記者会見で、「新たな日常を」などと語っても、空々しく響くだけ。記者会見は、地上波テレビがほぼ一斉に中継する時間帯を選び、世論対策をしたつもりなのだろうが、支持率が低下する中では逆効果だろう。「新たな日常を」なんて、あんたに言われたくないよと反発を招くのがせいぜいだ。

 テレビ局もテレビ局だ。「あすにも緊急宣言解除」、「きょう解除宣言へ」と、ニュース番組だけでなく、ワイドショーも含め、朝から晩まで報じているのだから、首相の会見に大したニュース価値はない。官僚の作文を読むだけの意味のない記者会見を一斉に中継するという怠惰な番組作りをいつまで続けるのだろうか。新聞記事や社説にも従来の陳腐な紋切り型の論調が見られる。

 実は「ニューノーム」は中国研究者にとって新しい言葉でも概念でもない。中国語で「新常態」はすでに2014年、中国の「流行語ベスト20」に入っている。変なにわか中国評論家にかかると、新常態が流行語だったのは2014年すでに中国ではコロナが広がっていた証拠などと言い出すかもしれないが、「新常態」はコロナに向けてではなく、高度成長に陰が漂い始めた中国があらたな経済戦略を模索する中で、習近平によって提唱されたものだ。

 中国論が今月の本欄の狙いではないので簡単に触れておくと、2010年頃まで二けた成長を続けてきた中国だが、経済成長に限界が見え始める。そこで「もはや異なる新たな段階に入った」との認識から、過剰な「生産設備」や「債務」を整理し、経済の質や効率を重視し、中程度の成長を目ざす経済への転換を図ったものだ。それに伴い、ITや電気自動車など次世代産業の育成に傾注していく。こうした戦略転換に伴って、大衆生活の中にすでにIT環境がしっかり根付いた。今回のコロナ騒ぎでも、ITを駆使した効率的な対策が打ち出され、感染拡大を一定程度の規模に抑え込むことができた。ITが国民生活にすでに浸透していた。

 中国というと、相変わらず独裁体制とか、先月論じた「謝らない政治」とか、ステレオタイプな視点からとらえられがちだ。確かにそういう面はあるのも事実だが、それだけでコロナを抑えられたわけではない。古くは天安門事件の後、鄧小平はこのままでは共産党は「死胡同(袋小路)」に入ってしまうと危機意識を露わにして、計画経済から市場経済の転換を図り、高度成長、国民生活の向上にまい進した。グローバルな情報化社会に入って、独裁だけでは政権は持たない。そのことは習近平政権自身の方がむしろわかっているのではないか。だからこそ「新常態」を常に心掛けてきたのだ。

 さて、メディア批評に戻ろう。「新常態」から見ると、嘆かわしい記事や論調が散見される。まず、これはお金を払って読む記事かと驚いたのは、5月23日付読売1面の「検証黒川氏辞職」の解説記事。「検事総長辞めていれば」との見出しがあるように、稲田現検事総長が黒川氏の定年前にすんなり辞めて、黒川氏が検事総長に就いていればこんな騒ぎにならなかったという「政府高官の恨み節」の紹介が主たる内容。そこには賭け麻雀に常習的に興じていた黒川氏への批判もなければ、このような人物を現職の検事総長を定年前に辞めさせ、その後釜に強引に据えようとした官邸にお仲間政治への批判はまるでない。それどころか、「稲田氏が辞任を拒んだため、官邸は法解釈変更で異例の定年延長に踏み切り、泥沼にはまっていく。この間、首相が指導力を発揮することはなかった」と、まるで責任は稲田氏にありといわんばかりの記事だ。「首相は指導力を発揮しなかった」とは読みようによって、首相の関与を否定し、擁護しているとも受け取れる表現もある。指導力を発揮しないことも含め、首相には責任が問われる。こんな論調だから、「責任は私にあります」というだけで、何の具体的な責任を取らない首相の逃げを許すことになる。そもそも定年前の検事総長を辞めさせて、定年を迎える人物を総長に据えようという人事ほど「恣意的な人事」はないだろう。

 検察庁法改正問題で、もう一点、指摘しておかねばならないのが、定年延長の可否を内閣が判断するという改悪点。すでに安倍政権では、モリカケ問題など「忖度政治」が大きな問題となったが、その背景には各省の幹部人事を、内閣人事局すなわち官邸が握ることによって各省のエリート官僚が官邸の意向を忖度する政治の仕組みを作ってしまったことだ。内閣人事局は、習近平が「新常態」を提言した2014年に設置された。各省庁の幹部の人事権を官邸が握ってしまったのだ。今回の問題では、黒川起用や恣意的人事への懸念もさることながら、一番の問題は検察の人事まで官邸に集め、お仲間政治、忖度政治を強化しようという陰の“たくらみ”にある。それが安倍長期政権、延命策の秘策だったのだ。

 もう一つ首を傾げたのは朝日の25日付社説「民主の成功に学びたい」だ。この社説は「権威主義体制による強権的な封じ込めが効果的だという主張がある一方、民主的で透明性のある対策が成功を収めたとするケースもある」とし、台湾のコロナ対策の成功を紹介したものだ。台湾の成功は、先月の本欄でも紹介し、WHOから台湾を排除している中国を、私は批判した。したがって台湾の成功を称賛するのはやぶさかではないが、それを民主主義と結びつけ、独裁体制を取る中国を批判するのは無理がある。同じ民主主義体制を取るアメリカやEU諸国は明らかに失敗している。台湾の成功と民主主義の関係をしっかり論証している内容ではない。民主主義体制であれ、権威主義体制であれ、政治を優先して、科学を軽視すれば失敗する。そこから議論を始めないと、民主主義=善、権威主義=悪のこじつけ議論になってしまう。

 それにしても、アベノマスクも10万円給付も、私はその恩恵にまだ浴していない。年金生活の私などどうでもいいが、一番困っている、助けを必要とする人に、支援の手が届いていないのは大きな問題だ。スピード感を持った対策などと言いながら、各種の支援策のオンライン申請が機能せず、アナログ申請に切り替えてほしいなどという事態。これが科学技術大国の実態か。これでは、「新常態」どころの話ではない。

 さらに言うと、ひとまずの感染拡大がひと息付いたところで、日本人の「連帯」や「きずな」、規則を守る生真面目さなど自画自賛の声も聞かれる。だが、この間、痛ましいのは、医療関係者などに対する「差別」、「偏見」、「いじめ」、ネット上での「バッシング」の問題だ。世界的に見ても、こんな恥ずべき現象が起きているのは稀有だろう。

 日本としてのコロナ以後の「新常態」をどう構築していくのか、大きな課題に直面している。コロナ騒ぎによって、医療だけでなく、経済や社会の仕組みそのものの弱点が浮き彫りにされた。現状を抜本的に見直し、「新常態」を実行するには、様々な利害の衝突を生じ、その調整が必要になる。どさくさにまぎれ火事場泥棒的に、自身の利益誘導を図るような指導者や政党の下では実現できないだろう。そのためには、まず信頼できるリーダーシップが必要だ。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。