月刊ライフビジョン | メディア批評

感染症は定住人類の宿命

高井潔司

感染症―その克服の歴史を考えよう―

 今月は私が現在読書中の本2冊の紹介から始めたい。いずれも全世界を恐怖に陥れている新型コロナウィルス問題を考える上で、一般的なメディアとは異なるマクロな視点、人類史的な視点から問題を見るヒントを与えてくれる本である。ただし、いずれもコロナウィルス感染が始まる前に書かれた本であり、それを目的に書かれたものでもない。私がたまたま手に取り、新型コロナに考えが及んだに過ぎない。「30分で○○がわかる本」とは違い熟読玩味しながら読みたい本であり、まだ私自身読書中なので、さわりだけの紹介に留まることを先にお断りしておく。様々な会合を自粛し、静かな暮らしが望まれる中、こんな本を読んで過ごすのも意義があるのではないかと思う。

 一冊目は『反穀物の人類史』(J.C.スコット、みすず書房)。人類が狩猟生活から定住、そして家畜を伴う農耕生活、国家の形成へと歩んだ歴史の深層を探ろうというのが、本書の狙いだ。私たちはまず人類史の基本として、人類が家畜を伴う農耕生活に入ったことで、感染症や寄生虫を背負い込み、それとの共生が宿命となったことを確認しておかねばならない。「ヒトは26種の疾患を家禽類と、32種をネズミと、35種をウマと、42種をブタと、46種をヒツジおよびヤギと、50種をウシと、そして65種を、最も研究された最古の家畜であるイヌと共有している」。感染症を引き起こすウィルスは変異を繰り返し、人類の歴史はそれとの戦いの歴史でもあり、感染症は様々な形で歴史を変容させてきたという。

 例えば同書によると、紀元前1万年の世界人口は約400万人だったが、定住と農業技術の進歩があったのに、その後の5000年の間、人口はわずかに100万人しか増加しなかった。「対照的に、その後の5000年で世界人口は20倍の1億人超にまで」増えたという。同書は「このパラドックスの有力な説明は、疫学的に見てこの時期が、おそらく人類史上で最も致死率の高い時期だった」と解説する。

 そして「最初の文字ソースからはっきりわかるのは、初期のメソポタミア人(後の5000年の時期の人々)が、病気の広がる『伝染』の原理を理解していたことだ。可能な場合には、確認された最初の患者を隔離し、専用の地区に閉じこめて、誰も出入りさせないというステップを踏んでいる。長距離の旅をする者、交易商人、兵士などが病気を運びやすいことも理解していた」という。定住によって妊娠回数が増え、したがって人口も増えるという定住のメリットが生かされるようになったのだ。

 もちろんウィルスもワクチンも知られていない遠い昔の記述だが、感染者の隔離は今日の騒ぎを思い起こさせる。私たちは新型のウィルスの出現に恐れおののき、終末観を抱きがちだが、人類の歴史にとって感染症の流行はむしろ常態であり、それを常に乗り切って今日の人類の繁栄があるのだ。と考えると、新型肺炎は「武漢ウィルス」だの「中国病」だの、「いやアメリカ軍人が持ち込んだ」のと、責任のなすりあいをしていることが馬鹿々々しく見えてくる。このグローバル化時代に感染症はそんな言い争いの間に世界中に広まってしまう。ウィルスこそが人類共通の敵であり、その戦争に打ち勝つ必要があると痛感させられる。

 本書はもちろん感染症の検討が主たる目的ではなく、最大の“寄生者”の「野蛮人」に関する面白い考察もあるが、ここではその議論をはぶく。

 もう一冊は『21世紀の啓蒙』(スティーブン・ピンカー、草思社)。昨秋、中国の友人の医師から「未来は決して暗くないようですよ」と勧められた本だが、ゆえあって最近読み始め、色々と考えさせられている最中だ。相次ぐ紛争、フェイクニュースの氾濫と社会の分断そして感染症の拡大と暗いニュースばかりが世界を覆っている感がある。しかし、この本は「世界は決して暗黒などに向かっていない」と、様々なデータを駆使し、近代の啓蒙思想の普及以降、「理性」、「科学」、「ヒューマニズム」によって迷妄の世界から抜け出し、人類は「進歩」して来たし、いまなお「進歩」し続けていることを論証している。

 メディア研究者である私にとって一番興味をそそられたのは第4章の「世にはびこる進歩恐怖症」だ。この章は、「知識階級は進歩を嫌っている。『進歩主義者』を標榜する知識人が、進歩を心底嫌っている」という皮肉な記述から始まる。それに続いて「何が“おしゃべり階級”の癪に障るかというと、それは進歩という考えそのもの、すなわち世界を理解することで人間のあり様を改善できるという啓蒙主義の信念のことだ」と知識人の間で啓蒙精神が軽視される傾向のあると指摘する。しかし、「どんな専門家も批評家も、彼らの保守的な読者でさえも、たいていは羽根ペンとインク壺ではなくコンピューターを使っているし、麻酔なしの手術より麻酔ありの手術のほうがいいと思っている」と知識階級のちぐはぐを皮肉る。その上で「ほとんどの人は自分が離婚する、解雇される、事故に遭う、病気になる、犯罪の被害者になるといった可能性は平均より低いと思っている。ところが、問題が自分ではなく自分が属している社会になったとたん、ポリアンナ(底抜けの楽天家)からイーヨー(くまのプーさんに登場する悲観的なロバ)に変身してしまう。これを世論研究者は『楽観主義バイアス』と呼んでいる」と総括する。

 こうした皮肉な道具立ての上で、「ニュースと認知バイアスが誤った悲観的世界観を生む」というメディアの機能に対する批判的な議論へと展開する。「『血が流れたらトップ記事』という報道方針に煽られ、世界の状況について人々を憂鬱な気分へと誘導する仕組みはとてもわかりやすい」「記事の選定者が一貫してポジティブな記事よりネガティブな記事を優先する」「次いでその傾向が、社説を書く悲観論者に安易な慣例的手法を提供する。つまり、その週に世界で起こった最悪の出来事を集めてきて、そこからいかにも重要そうな問題をあぶり出し、われわれの文明がかつて直面したことがない危機について書くのである」と手厳しい。、その結果「ネガティブなニュースがもたらす結果は、それ自体がネガティブだ。ニュースを見れば見るほど、正しい情報が得られるどころか、誤った方向に誘導されかねない。犯罪率が低下している時でさえ犯罪をますます恐れるようになり、時には現実にすっかり背を向けてしまうこともある」と指摘する。

 元新聞記者として、あるいはこのコラムで様々な社会問題を論じているが、けっして読者にバイアスを植え付けるためでなく、問題点を指摘し、それに対する改善を論理的に、科学的に図っていこうという「啓蒙主義」の立場に立って仕事をしてきたつもりだ。だが、実際にそれがどんな効果、結果をもたらしているかというと、残念ながらピンカー氏の指摘の方に近いかもしてない。大学教員時代、「メディアと人権」という授業で、少年犯罪報道について講義した際、少年犯罪は実際のところ減少しているという事実をいくら指摘しても、学生達には理解してもらえず、少年犯罪の厳罰化を主張する学生たちのレポートばかりを読まされたという記憶がよみがえる。

 さて、本書の感染症に関する議論に戻ろう。「第6章健康の改善と医学の進歩」は、「人、類史の大半において、最大の脅威は感染症だった。質の悪い進化とでもいいたくなるが、微小で増殖率が高く、進化も速い生物が宿主を食いものにし、昆虫や他の微生物、宿主の分泌物や排泄物などを利用して体から体へと移っていく。伝染病ともなると何百万という単位で人命を奪い、文明を丸ごと消滅させたり、ある地域の人口を激減させたりしてきた」と、『反穀物の人類史』と同様の問題意識を共有している。

 人類はそれにどう対応して来たか。「創造力の豊かなホモ・サピエンスは、長いあいだ祈祷、生贄、瀉血、吸角法(ガラス容器で皮膚を吸引する民間療法)、有毒金属(梅毒治療に使われた水銀軟膏など)、ホメオパシー、あるいは患部に雌鳥を押し当てて絞め殺すといった方法で病と闘ってきた」と、長く続いた啓蒙時代の以前の人類の悪戦苦闘の歴史を紹介する。しかし、啓蒙時代以後、「一八世紀末のワクチンの発明をきっかけに、また細菌学の進展に後押しされて、闘いの形勢が変わり始めた。手洗いの習慣、助産術、蚊の駆除、とりわけ公共下水道の整備と塩素殺菌による飲料水の保護に力を入れたことで、何十億人もの命が救われることになった」と振り返る。

 当たり前といえば当たり前の指摘だが、われわれはともすれば科学より、神頼みとなりがちだ。不安にかられ、マスクはまだしもトイレットペーパーにまで殺到して、長い行列を作ってしまう。同書はさらに「今も感染症根絶の努力が続けられている」ことを忘れてはならないし、「間違った知識に頼ると進歩するどころか退歩してしまう」とも指摘する。その一例として「タリバンやボコ・イスラムが広めた『ワクチンはイスラム教徒の女性を不妊にするためのものだ』という陰謀説や、裕福なアメリカの活動家たちが広めた『ワクチンは自閉症を引き起こす』といった説を挙げる。振り返ってみると、今回の新型コロナウィルスをめぐっても、様々な陰謀説やフェイク情報がインターネット上をにぎわせている。

 ヒト、モノ、カネ、そして虚実含めた情報が地球規模で自由に動き回るこの時代、改めて「理性」、「科学」、「ヒューマニズム」の「啓蒙精神」によって、新たな社会の仕組みを見直していく必要があるだろう。

 3月下旬になって、ようやくIOC(国際オリンピック委員会)からの申し入れを受け、東京五輪の延期が決定された。同じころ都知事から「首都封鎖(ロックオーバー)」という恐れていた発言が飛び出した。日本政府はPCR検査を極力抑え、結果感染者数は、中国はもちろん、欧米各国よりも低く推移してきたが、感染ルートわからない感染者が増え始め、オーバーシュート(爆発的感染者の増加)の恐れが出てきたのだ。無症状感染者からの感染も指摘され、検査を抑えてきた付けが現れ始めた格好だ。

 多くの人が五輪の予定通りの開催は無理と考えていたが、安倍首相の「完全な形での開催」などという神がかったご託に、五輪大臣以下、都知事や組織委員会の幹部も同じ発言を繰り返してきた。異論を挙げたのは「アスリートファースト」を訴えた山口香JOC委員くらいだった。ところが、森喜朗・組織委会長はIOCの申し入れ受け入れ後の記者会見で手のひらを換え、「最初の計画通りにやるというほど、私たちは愚かではない」と見栄を切ったそうだが、安倍首相のご託宣に何も異議を唱えなかったのだから、その発言自体、自らの愚かさを示したものと言えよう。これでは、安倍首相はまるで「裸の王様」ではないか。

 3月25日付け読売の1面コラム編集手帳をはじめ、各紙は一般記事でも、香港紙が伝えた中国政府が新型ウィルスの検査で陽性を示しながら発熱などの症状のなかった4万5千人を統計から外していた問題を取り上げ、中国政府が情報を意のままにする国とやゆしてやまない。確かにそうだろう。だが、同じく情報操作によって、無症状感染者を野放しにしてきたわが政府の問題点を日本のメディアは全く問題にしてこなかった。日本国民にとってこちらの問題にこそ深刻な影響を受けるのだから。他国の状況をあげつらうより、自国の問題をしっかり報道してはどうか。ちなみに中国メディアも無症状感染者をカウントしていない問題を取り上げ、武漢で感染者ゼロと言ってもまだまだ安心できない状態だと報道している。中国メディアの方がよほど政府の情報操作に負けず頑張っている。

 連日、日本のメディアは感染者の増減を表にして報じているが、医療崩壊の起きている欧州などは別として、千数百人規模の感染者数で、4%前後の死者を出している国はほとんどない。それは検査数が極端に少なく、したがって感染者数も抑えられているためだ。死者数はごまかせないから、死亡率は高くなる。この操作を意図的にやってきたのか、どうか不明だが、感染ルートが不明な感染者の増加で、その矛盾が露呈されつつあり、だからオーバーシュートの恐れが出ている。ただし、検査数が抑えられた結果、マスク騒ぎのように、検査を求めて殺到するという騒ぎは起きていない。それに伴う感染の拡大や医療崩壊は起きなかったのは無策の“けがの功名”というべきだろう。

 森会長の毎日新聞インタビューの一部を紹介しよう。

 東京五輪を巡っては、マラソン会場の札幌移転など難問が続いてきた。森氏はかつて見た映画「ポセイドン・アドベンチャー」を思い出したといい、天を仰ぐようにして「いいかげんにしてくださいよ。私もここまで命を懸けてやってきた。許してくれませんか」と顔をゆがめた。「虎ノ門(東京都港区)に事務所が あった時は近くの愛宕神社にお参りしていたが、ここ晴海(中央区)に移ってからは神社と縁が切れて。富岡八幡宮(江東区)には足を運んだんだけど、何とな く気になっていたんだ」。延期期間については言及しなかった。新型コロナウイルスの感染拡大には「やはり決め手は特効薬やワクチン。八百万(やおよろず)の神よ、世界中の科学者に英知を与えたまえという気持ちだ」 と心情を吐露する・・・

 こんな神頼みしかない、啓蒙精神とは無縁の方を、最高責任者に戴いて、わが国はオリンピックを開催しようとしている。ただし、「オーバーシュート」だの「ロックダウン」だの新しい言葉を駆使されるえらい政治家の皆さんを「愚か」などと言ってはなりますまい。「政治的思惑」が優先し、啓蒙精神を鈍らせているだけかもしれません。

 感染(パンデミック)の中心が中国から欧州、さらにアメリカへと移動する中、各紙によると、3月25日開催された新型コロナウィルス対策をめぐる主要7か国(G7)外相のテレビ会議で、アメリカのポンペオ国務長官は、新型ウィルスを「武漢ウィルス」と呼び、「中国共産党は我々の健康と生活のあり方に対する重大な脅威となっている」と批判して共同声明に盛り込むことを提案したが、異論が出て採択に至らなかったという。トランプ大統領らが当初楽観論を振り撒き対策を遅らせ、感染の拡大を許してしまった責任を、外に向けようという姿勢が見え見えで支持を得られないのは当然だ。他者を排撃してしか自己証明できないネオコンの自己中心主義が見て取れる。

 どうしても中国を悪者にしたければ、国際的にコロナ対策を統括している世界保健機関(WHO)から台湾を排除している中国を批判すべきだろう。今回のコロナ対応では台湾は早い段階で独自に次々対策を取り、中国との人的往来が密接であるにもかかわらず、感染を小規模で抑えている。この“台湾経験”は多くの国で参考になることは疑いない。

 中国が感染症は人類共通の敵というなら、台湾を排除するのは大きな矛盾だ。排除する一方で統一など主張しても台湾の人々の支持が得られるはずがない。ここでは台湾の統一問題を論じるつもりはないが、まだまだ感染の拡大が予想される中、台湾経験を国際的に共有することは極めて重要な課題になっている。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。