月刊ライフビジョン | 地域を生きる

放課後の子どもたち その3

薗田碩哉

 子どもが”子どもらしい子ども“になるためには、自由な遊びを欠くことはできない。そのためにこそ「放課後」があるのである。一時代前までは常識だった放課後=遊びという捉え方は今や風前の灯火のように頼りなくなっている。遊びなんて無用の長物で、無いに越したことはないという大昔の発想が息を吹き返しているらしい。

 かつてドイツのシラーは言った。「人は遊ぶ時、全き人(ganze Menschen)である」と。フランスのルソーもその教育論の根底に子どもの「自由」と「自然」を置いて遊びを肯定したし、人の自己発展能力を引き出すことが教育だとしたスイスのペスタロッチを経て、ドイツのフレーベルは「あらゆる善の源泉は遊戯の中にあるし、また遊戯から生じて来る」と断言した。(こういう風に遊びを持ち上げてくれたエライ人が近世以来の日本には見当たらないのは残念である)。

 フレーベルは幼稚園の始祖として有名だが、彼が幼稚園(Kindergarten=子供の園)を作ったのは、子どもを抑圧したり労働に追い立てたりする大人から子どもを切り離し、子どもが自由に遊ぶことのできる子どもの楽園を目指したからであった。幼稚園は今や世界中に普及しているが、それらがフレーベルの理想を実現しているかどうか、はなはだ心もとない。日本の幼稚園の多くは単なる子どもの収容所に堕している。制服を着せてバスで送り迎えし、お行儀よく課題をこなすことを強いている。遊びまでもがしっかり管理されていて、今日の遊びは何々、と決められているところもある。先生の指導で整然と縄跳びをしていた子どもが保育者に聞いたという。「センセイ、なわとびが終わったら遊んでもいいですか?」―フレーベル先生は地下で慨嘆しているに違いない。

 遊びには一体どんな価値があるのか、確かに子どもは喜ぶかもしれないが、それでいいのか、と疑問を呈する向きもあるかもしれない。遊びには実にさまざまな価値があるが、そのなかでも「すべて遊びは規則をもとにしている」というのは重要である。じゃんけんでも鬼ごっこでもかくれんぼでもままごとでも、遊びはある約束に基づいている。パーはグーに勝ち、チョキに負けるとか、誰が鬼になるか、どこからどこまで逃げていいか、誰はどんな役回りをするか・・・全ては子どもたちがあらかじめ約束し合う。みんなで決めたルールに従属することではじめて遊びが成立する。自己決定と自制とが遊びを面白くし、みんなを満足させる。このことが子どもたちを成長させる。

 遊びのルールはいくらでも修正可能である。遊びの途中で対立が生ずれば話し合い、交渉が行われ妥協が図られる。遊びのチームはその都度作り直され、大きい子も小さい子も混ぜこぜでいつも変わる。勝つか負けるかは大した問題ではない。良いプレーをして楽しむことが何よりも重要である。

 こうした変幻自在な遊びを取り上げて、小学生の時から出来上がったスポーツを押し付けるのがいかに問題であるかが見えてくる。大人の作ったルールは絶対で異議申立てなど許されない。進め方について子どもが口をはさむことなどできない。勝利至上の鍛錬主義、その中で子どもの自由も自立も創意工夫も押しつぶされていく。「放課後」はこうした風潮への抵抗の場として見直されていいはずである。 (以下次号)


「地域に生きる」57 親子一緒に陶芸に挑戦 

 毎年秋に行っている「さんさんくらぶ」の造形ワークショップ。今年のテーマは縄文土器、それも器に人や動物の顔を付けた「顔面土器」に挑戦した。さて、どんな傑作が焼きあがるか。お正月には品評会が行われる。


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。