フランシスコ教皇の長崎爆心地でのスピーチの冒頭、「人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識——」と語った。
直ぐに思い出したのは仏文学者渡辺一夫(1901~1975)の言葉である。「人間は狂気なしではいられないらしい」。感動とか、感激と呼んでいるものの中には常に狂気の翳がさしている。
パスカル(1623~1662)は、「原罪意識・心の痛みを抱えていながら、人間は天使になろうとして豚になる」と語った。キリスト教という運動自体が狂気に翻弄され、結果的に豚になってしまった長い歴史を持つ。
教皇の言葉には、いかにもやりきれない人間なるものに対する深い静かな反省が込められているように、わたしは感じた。
戦争は平和の帰結として登場する。これが歴史だ。日々の真剣深刻な反省がない結果として戦争を招く。
人間が原罪として問われているのは、常に反省ができるかどうかということである。それができるかどうかが、人間であるか否かの違いである。敗戦直後のわが国においては、反省があったはずである。