週刊RO通信

トランプ流とマッカーシズム

NO.1328

 1950年2月9日、アメリカ上院でマッカーシー議員(1908~1957)が「国務省内に共産党員およびスパイ網の一味が250人いる」と演説した。それから54年12月に上院でマッカーシー議員問責決議が採択されるまで、「赤狩り」が米国政治の機能を停止させる勢いであった。冷戦体制、朝鮮戦争も始まり、アメリカは共産主義に対する見えざる恐怖の雰囲気が支配していたが、それにしても異常な雰囲気が巻き起こった。

 マッカーシーは当初民主党員であった。共和党に鞍替えし、46年から上院議員であったが、さして目立つ存在ではなかった。民主党トルーマン政府は共産主義者と共謀しているとはったりをかけた。反共は、いわばアメリカの超党派的「原理」である。マッカーシーに質問しても、のらくら答弁で具体的に誰かを指摘できない。デタラメで証拠不十分なのである。

 ところが世論は、上院議員が嘘の発言をするはずはないし、誰かを特定できなくても、ありそうな話だという気風が広まった。人々は理性の発揮よりも、権威主義に従順であるし、日ごろの不満やうっぷんの矛先を憎しみ化し、糾弾し、罰したいという傾向が醸成された。誰も真実を確かめるとか、立ち止まって考えない。意識せずして、人々は香具師のサクラの役割を演じた。

 新聞は、マッカーシーが「1人の共産主義者さえ特定できなかった」と書かなかった。中身がないことを新聞は記事に書き続けた。マッカーシーが語る「反逆、スパイ、汚職などの非難は抑えたり無視できない」と考えた。上院議員が嘘をついているのであれば、それもまたニュースである。新聞がマッカーシーを嘘つきと呼ぶためには、誰かが、彼を嘘つきと呼んでくれなければならない。これは当時のニューヨークタイムズの方針である。

 加えて、人々は思想や制度の論争よりも、役者の立ち回りに対して興味をそそられる。いつの時代にも煽動家が登場するのは避けられない。ニュースが、真実であるかどうか、自分で確かめる人はほとんどいない。かくして、アメリカ国民は反共主義ヒステリーの症状を呈した。マッカーシーは、思いつきを雄弁に語ることにおいて極めて有能であった。内容は口汚く、低級で下品であったが、5年間全米を巻き込んだ事実が残る。

 以上は、R・H・ロービア(1915~1979)『マッカーシズム』を読んで私流に要約したものである。

 いま、トランプがマッカーシーに酷似していることに気づく。ロービアは「アメリカにはマッカーシズムの土壌がある」と指摘したが、アメリカだけではなく、あらゆる国々の人々が拳拳服膺しなければならない。

 10月30日時点のトランプ支持率は42.9%、不支持は53.7%である。トランプ流によれば、口撃対象は民主党・メディア・ディープステーツである。自分が気に入らないものはすべて敵とするのが特徴である。自分は「Witch Hunt」(魔女狩り)にされているとして、殉教者を気取る。自分だけが絶対に正しいというのはマッカーシーと同じである。

 明確に敵を規定する。敵味方のデバイド戦略は、今日までかなりの成功を収めてきたし、これは今後もトランプ流の核心として続けるだろう。逆にいえば、これを止めればデマゴーグとしての成功は実らない。どこまでも、嘘だろうがなんだろうが、自分が「正しい」、ゆえに「逆らう輩は敵」という路線だ。理性的な人は懐疑する。トランプ流は懐疑する人も敵である。

 トランプ流政治の要諦は「壁をつくる」ことである。自分を信ずる者とそれ以外の間に壁をつくる。単にメキシコとの国境につくる壁ではない。全世界のすべての人々と自分のとの間に壁をつくり続ける。パリ協定離脱に限らず、壁をつくるためには過激であり続けねばならない。安定とか平穏な事態とは無縁である。トランプが権力を掌握する限り世界は不安定一直線だ。

 政治は、つねに現状よりも向上するために存在しなければならないが、トランプもマッカーシーと同じく、向上してはならない。なぜなら、それは自分の存在が否定される時だからである。マッカーシーは上院議員であった。トランプは大統領である。いま、アメリカで吹き荒れているのはマッカーシー旋風よりももっと大きな嵐である。壁に対しては寛容が大事だが、寛容の意味を理解するのは、やはり、国民1人ひとりである。