週刊RO通信

東電旧経営者強制起訴判決の疑問

NO.1321

 9月19日の東電旧経営者に対する強制起訴判決は、原発や刑法にズブの素人である市民の1人ではあるけれども、いくつかの疑問点を指摘したい。

 過失罪は、行為に落ち度があったという客観的態様の妥当性を評価する。判決の――業務上過失致死傷罪が成立するためには、人の死傷の結果の回避に向けた注意義務、すなわち結果回避義務を課す前提として、予見可能性があったと認められることが必要――という前提は妥当である。

 判決では、旧経営者の3人は、10m超の津波の予見可能性がなかったとは言いがたいとしつつ、ところが、原発の運転停止を講ずる結果回避義務を課すにふさわしい予見可能性があったとは認められないと反転する。黒だと言いつつ白であるとコペルニクス的転回(?)するのだからわかりにくい。

 第一に、「津波の予見はできなかった」ことを強調する。天変地異は誰にも予見できない。これに重点を置くのであれば東電も経営者もまったく責任はない。しかし、単に被害が大きかったというだけではなく、安全問題や、企業経営者のあるべき姿を考えるのが過失問題の根本である。

 東電に限らず、電力会社に限らず、専門家は、「原発安全」論を喧伝してきた。事故発生当時、厳しく指弾された「想定外」の理屈が再登場したような違和感が残った。判決批判の世間的感情の原因であろう。

 第二に、検察官役の指定弁護士が、あらかじめ津波対策を取れば事故が避けられたと主張したのに対して、判決では「いつまでに対策に着手していれば対策が完了していたか判然としない」と指摘した。

 旧経営陣が情報に接したのは2008年6月から2009年2月であるが、この時期から対策に着手しても「現実に発生した災害事故までに完了できたかどうか明らかではない」というのである。

 そこで「事故を回避するには、原発運転を停止するしかなかった」。しかし、東電には電力供給の義務がある。これは、「小さくない社会的な有用性」であるから、「運転停止の社会的影響」を考えよとする。

 第三に、いつ発生するかわからない津波に対して、想定しうるあらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることを義務づけるとすれば、原発の設置・運転が認められているのに「運転は不可能」になるという。

 上記2点を前提するのは、「初めに稼働ありき」論であって、天災なんだから仕方がないという運命説に聞こえる。ところで事実はどうだったか。深刻な被災の後、原発が停止したが、みんなで協力して停電で大騒動という事態にはならなかった。必要な措置が間に合ったか否かの問題ではない。

 いかに裁判官が科学的門外漢だとしても、「止めたくても止められない」というような比喩(?)を持ち出したのは理解に苦しむ。

 もしというならば、蚊帳の外ではあるが、わたしは当初から一貫して、あの非常用電源が原発装置のもっとも高い位置に据え付けられていれば、ということが頭を離れない。事故後に原発の配置図を見て驚いた。

 非常用電源が予定通り作動していれば、原発の爆発事故もなかったし、膨大な汚染水に悩まされることもなかった。夢みたいな話だが、あのような巨大津波に襲われても、日本の原発体制はびくともしなかった。ということになれば、日本の技術力が、それこそ世界的神話をもたらしたであろう。

 非常用電源が低い位置に据え付けられていたのは原発設置以来である。それからの長い間、原発の専門家の誰からも、基本的設計の未熟さが指摘されなかったのであろうか。原発に限らず、長期間使用する機械装置はつねに成長させていくものだ。というのが機械屋の常識である。判決にこの視点がまったく見られないのは残念である。

 一歩間違えれば大惨事を招く可能性がある技術をもって立つ企業の(歴代)経営者中枢が、法的には問題がなかったとしても、これを一貫して見落としていた事実に対して大きな疑問を感じる。

 災害事故の防止として、刑法では、刑罰よりも防止措置や機構を充実させることが、過失問題の核心である。「当時、誰にもわからなかったことだから責任を負わされなくてよい」という弁解が安易に認められるべきではないというのが判決の文脈でなければならないはずだ。