週刊RO通信

表現の自由、もう1つの視界

NO.1319

 衆議院議員の丸山氏が、北方領土に関して「戦争しないとどうしようもなくないですか」、続いて竹島に関して、「戦争で取り返すしかないんじゃないですか」と同じ趣旨の発言をした。有象無象とは違うと言いたいらしい?

 衆議院では、平和主義に反する。国益を大きく損ない、衆議院の権威と品位を著しく失墜した、として丸山議員の進退判断を促す糾弾決議をしたが、本人らは「表現の自由」を楯として反省する気配がない。

 日本国憲法第19条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とある。基本的人権として、精神的自由・経済的自由・人身の自由が約束されている。精神的自由とは、思想・良心の自由である。

 敗戦までの大日本帝国憲法においては、特定の思想を反国家であるとして徹底的に弾圧したので、その反省に立って、日本国憲法ではとくに思想・良心の自由を大切に保障している。極めて大事なことである。

 学説では、思想・良心には世界観・人生観・主義・主張など、個人の人格的な精神的なものが含まれる。それが民主主義を否定する思想であっても、「内心」の思想であるかぎり罰せられることはない。

 また、権力が「内心」を公開するように強制してはならない。たとえば半世紀前ごろまで、会社が新入社員の思想調査もどきをやっていた。このようなことはやってはいけない。(いまはないと思うが)

 思想・良心が「内心」のものである段階では、問題はないわけだが、本人がそれを外部へ向けて発表すると、「表現の自由」(言論の自由・出版の自由)という問題が発生する。

 「世界人権宣言」(1948)の第19条には、「意見及び発表の自由」が謳われているし、現憲法第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と書かれている。

 つまり、丸山発言が社会通念上の暴論であっても、他人の人権を貶めたり、公共の福祉に違反しない(この内容が明確に規定できないが)かぎり、「表現の自由」によって守られるのは妥当である。

 大方の人々の良識に反する発言であるとしても——1929年、米国最高裁判所のホームズ判事の言葉を紹介する。いわく、

 「憲法がいちばん守らねばならない原理は思想の自由――わたしたちと一致する人たちの思想ではなく、わたしたちが憎む思想の自由である」。そしてそれが規制対象となるのは、「明白に現在の危険」が存在するときであって、そうでなければ規制は許されないとした。

 もともと、思想・良心の自由や言論の自由は、権力がそれを制限し、弾圧した数限りない事例があるから、それに対する反省から生まれた。主として、権力に対する批判・反対の自由として掲げられたのである。

 丸山発言と、それが表現の自由だという抗弁に対して、多くの人々が抱いた違和感は、反権力の批判・反対というものとの少なからぬ隔たりであったのではなかろうか。

 衆議院の丸山議員に対する進退判断を促す糾弾決議をもう一度見てほしい。憲法の平和主義に反するのは間違いない。憲法第9条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力行使はしない」ことに違反している。

 また、丸山氏は議員であるから、同99条の「天皇、国務大臣、国会議員、裁判官、その他公務員の、憲法遵守・擁護の義務」にも違反する。ただし、これだけで丸山発言を法的に禁じたり、処罰することはできない。

 さて、2014年7月1日の閣議で、集団的自衛権を認めた。憲法学者は「外国が攻撃を受けたとき実力行使する集団的自衛権は、日本防衛上必要最小限度の実力行使といえないから憲法違反である」と明確に指摘している。

 こちらは明確な憲法違反である。糾弾決議にある、「平和主義に反す」「国益を大きく損なう」というのは、まずは内閣に向けられなければならない。なにしろ国民の憲法を棄損したのであって実害がある。

 維新が丸山議員を即時除名し、与党また速やかに糾弾決議をした理由は、自分たちがおこなってきた憲法違反に飛び火しないようにという火消作戦である。丸山議員の火つけが国民諸兄姉への気づきを生んでほしい。