論 考

無責任の体制

 大日本帝国憲法の立憲君主制とは――政治上の責任を政府と議会に負わせ、天皇は全く政治上の責任がない、神聖不可侵な存在ということになっていた。

 しかし、立法は天皇の大権に属す。伊藤博文『憲法義解』には、「至尊(天皇)は独り行政の中極たるのみならず、また立法の淵源たり」とある。

 要するにすべては天皇から発しているのであるが、尊い存在だから一切無責任な存在というわけだ。

 また、天皇は陸海軍を統帥する。その天皇が、軍が「下克上」で、結果として(自分はしたくない)戦争をしてしまったという理屈だ。

 実際、無責任の君主を笠に着て、大きいのも小さいのも自分の権勢の拡大を図った。かの立憲君主制なるものは、君主のみが無責任なのではなくて、政府といい、議会といい、軍部といい、いずれ劣らぬ無責任であった。

 無責任の至尊を崇め奉るとすれば、無責任になるのは必然ではなかろうか。昭和天皇の反省の弁らしきものを追いかけていると、容易に責任の所在にたどり着かない。

 われわれ日本人は、いまだ15年戦争の呪縛に絡めとられている。