週刊RO通信

戦争の歴史を再現させないために

NO.1315

 米国前大統領のオバマ氏の発言(8/5)は、重要な意義をもつ。いわく、

 「わたしたちは、指導者の口から出てくる恐怖や憎悪を増幅させたり、人種差別的な考えを普通のことのように正常化したりする言葉を、きっぱり拒絶するべきだ」

 「自分たちと見た目の違う人を悪者扱いするような指導者、あるいは他の人間を人間以下呼ばわりするような指導者、さらにはアメリカがたった1種類の人間のものだと示唆するような指導者を(きっぱり拒否するべきだ)」

 名前が挙げられていないが、これがトランプ氏の発言についての明確な批判だということは誰にでもわかる。前大統領が現職大統領を批判するのは異例中の異例らしい。ただし、これは党派的立場の批判にとどまらない。

 トランプ氏に限らず、アメリカに限らず、政治的指導者に限らず、社会的影響力のある立場の人々のすべての発言に関わる問題である。

 差別や憎悪的発言する人に、「思想および良心の自由」に基づいて発言の自由がある――と、居直らせてはならない。なぜなら、他者の基本的人権を破壊するような言論は、思想・良心の自由にふさわしくないからだ。

 1948年12月10日、国際連合第3回総会決議で満場一致採択された「世界人権宣言」は、「人類憲法の前文」と呼ばれ、その日は「世界人権デー」として世界各国で記念されるようになった。

 その前文には――人権の無視と軽蔑とは、人類の良心を踏みにじった野蛮行為を生ぜしめ、一方、人類が言論と信仰の自由および恐怖と欠乏からの自由とを享受する世界の到来は、一般の人々の最高の願望として宣言されたので――と高らかに記された。

 第1条には、――すべての人間は、生まれながらに自由で、尊厳と権利について平等である――とある。第2条には、――何人も、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、生出もしくはその他の地位のような、いかなる種類の差別もうけることなく――と続く。人が人として社会を構成するための規範である。

 これを、そのまま正面から批判する人は少ないだろう。しかし、残念ながら人権の無視と軽蔑が性根にしみ込んでいる人は少なくない。

 昨今、少なからぬ政治家(社会的影響力のある人)が、平然と、何かに対して憎悪をぶつける。彼らがそのような発言をするのは、それが集団を統一するために、極めて効果的だということを知っているからだ。

 人生を謳歌して暮らしている人は多くはない。一方、社会的・経済的に思うようにならない人は圧倒的に多い。自信喪失したり、コンプレックスに取り巻かれて、漠然とした嫌悪感を抱くことも少なくない。

 扇動的タイプの政治家がよく活用する手立ては、現在をさげすみ、否定して、素晴らしい過去を賛美してみせる。そして、何かに対して憎悪をぶつける。憎悪の対象を叩き潰せば未来はバラ色だという流れである。

 解決すべき問題の具体策があるならば、憎悪を持ち出す必要はない。いや、本気で問題解決を考えているかどうか。憎悪を煽り、聴衆を熱狂させて、自分に引き付けることを狙っている。本当の問題解決策がなく、過剰な憎悪をばらまく。手っ取り早く憎悪の対象にされるのは弱い立場の人である。

 面白くなくて、漠然とした嫌悪感を抱いている人は、八つ当たりの対象が見つかる。扇動者に唱和し、一体化気分になると、なにやらスカッとする。自分で自己回復できない場合、人は、集団と同一化したい傾向にある。

 なんら建設的な展開はない。憎悪の行きつく先は破壊である。自分が何に対して不満なのか、何を怒っているのか。そんな理性の出番はなく、ひたすら憎悪をばらまく扇動者と一体化するだけである。

 憎悪をばらまく扇動者を拒絶しなければならない。扇動者に共鳴する人が拡大することは、結局、社会が解体していくことに通ずる。憎悪の扇動が突き進んでいく先には戦争という壊滅的破壊が危惧される。

 もうすぐ74回目の敗戦の日が訪れる。戦争こそが、憎悪という動因を最大に活用した大衆運動だということを忘れまい。いまの国内外の扇動者の活躍(!)は、歴史が繰り返しつつあることを示唆している。