週刊RO通信

歴史的経験を共有するために

NO.1314

 井伏鱒二(1898~1993)『黒い雨』は、1965年1月号から66年9月号まで雑誌『新潮』に掲載された。66年度野間文芸賞を受賞した原爆罹災者の体験を扱った小説である。読むたびに込み上げるものがある。

 閑間重松・シゲ子夫妻と、同居している姪の矢須子の3人の物語である。重松は横川駅で被爆、シゲ子は市内の自宅にいたが無事、矢須子は勤め先の用事で爆心地から10キロ以上離れており直接の被爆はしなかった。

 数年後、3人は山村で平穏に暮らしている。矢須子に縁談が起きた。彼女が市内で勤労奉仕中に被爆したという風聞が流されているので、重松が自身と矢須子の被爆時の日記によって、そうではないことを証明しようとする。

 矢須子は3人で避難する際に、「黒い雨」のなかを歩き、災害地でひじをすりむいたりしたために発病する。物語自体は単純である。日記を挿入することによって、被爆時以降の事情が詳細に語られる。

 矢須子の日記、8月6日、――午前十時ごろではなかったかと思う。雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降ってくるのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。——ぞくぞくするほど寒かった。――

 ――私は泉水の水で洗ったが、石鹸をつけて擦っても汚れが落ちなかった。——私は何度も泉水のほとりに行って洗ったが黒い雨のしみは消えなかった。――これが、後半で矢須子が発病する伏線になっている。

 8月7日の日記には、――広島は焼けこげの街、死の街、滅亡の街、累々たる死骸は、無言の非戦論。――

 短い一行に、小説『黒い雨』のコンセプトが込められている。

 評論家・河上徹太郎(1902~1980)は『黒い雨』について、――原爆小説は多いし、政治的論議もかまびすしいが、その議論が過剰の感を懐かせる。人間性が希薄で、問題が観念化され、感傷化される。

 (政治的に)いきりたつことによって、問題の真意をぼやかせる。『黒い雨』は、被災者の憤りや訴えによってではなく、彼らの受動的な忍苦を(淡々と)描くことによって読者の義憤を惹き起こす。――

 これが小説『黒い雨』の成功の所以であると指摘した。

 ――原爆は彼らの肉体を致命的に傷つけるが、精神は依然として、「善良な市民」である。この「恒の心」を失わぬという非凡な平凡さが彼らの個性をなし、彼らを市井に伍したまま英雄と化する。――

 ――この小説は勿論痛烈な戦争呪詛である。然し面と向かって反戦を喚き立てるのではなく、黙々と戦争に「協力」しながらその犠牲になっている民衆に対するいたわりから出来ている。だからそこに真実の戦争への抵抗が生まれるのだ。――

 以上が河上の書評の要点である。小説が、政治的談義を全面に押し出せば読者はくたびれる。初めから読む気分にならないだろう。井伏はそれを十分に認識しているからこそ、修羅場を、むしろ静謐に、淡々と描いた。

 では政治的主張がないのか。そんなことはない。『黒い雨』後半にある一節。「それにしてもピカドンが落ちる前に降伏することは出来なかったのか。いや、ピカドンが落ちたから降伏することになったのだ。しかし、もう負けていることは敵にも分かっていた筈だ。ピカドンを落とす必要はなかったろう。いずれにしても今度の戦争を起こす組織を拵えた人たちは——」

 ポツダム宣言が出されたのは7月26日、広島原爆投下8月6日、ソ連が対日参戦布告8月8日、長崎に原爆投下8月9日。宣言から広島原爆投下まで2週間。一億玉砕論が最後の最後までわが国の理性を妨害した。

 なぜこんなことになったのか。どこから破局へ走り出したのか。これを考えないことには、経験の歴史的共有ができない。小説を読んで、黙して語らぬ市井の英雄と共感しても、戦争というバカな行為が償えるわけではない。

 戦争の原因と結果を考えれば、必然、その流れを作った責任を問わねばならない。かの戦争から今年は74年になる。原因・結果・責任を放置してきたことによって、いま、わが国の舵取りがぐらぐらしている。井伏は、市井の英雄を称えたのではない。戦争を阻止できなかった痛哭を描いたのだ。

 まだお読みでなければ、いちど『黒い雨』をお読みいただきたく。