週刊RO通信

政治と政治家についての視点

NO.1310

 ときは参議院議員選挙である。昔から選挙は祭りであるという。人々が、直接政治に携わる政治家を選ぶのだから、選んでくださいという人が騒動するだけではなく、選ぶ人こそが気合を入れなければならない。

 選挙が盛り上がるのは、選ぶ方と選ばれる方が共に盛り上がるからだ。選ばれたい方は、お願い、宣伝、扇動で働きかける。選ぶ方は、その真偽を読み取り、見極め、沈思黙考して1票を投ずる。動と静の関係でもある。

 人間の気風は現状維持的である。誰でも、今日よりも明日がよくなってほしいと考える。ただし、これは単に期待であって掴みえない。掴みえないものに賭けるのは楽天的であり、ものごとを畏れない気迫であろう。

 政治がうまく運んでいると考えられる時期には、さらに良くしたいという気風が沸く。逆の場合は、なんとか現状維持したいという気風に支配される。つまり、いずれの場合も心理的には、権力政党が優位である。

 なにしろ、同時期に比較できる複数の政治が並行することはない。学生時代から「○か×か」、意識調査の数項目から1つ選択する方式に慣れ親しんでいるから、自分でものごとを組み立てて考えることが少ない。

 自民党はつねに「安心・安定」を掲げる。上を見ればきりがない、下を見てもキリがないというわけで、無意識のうちに「安心・安定」の反対、「不安・不安定」を想像する。現状から一歩踏み出すのは容易ではないわけだ。

 しかし、現状維持たる「安心・安定」がもたらしつつあるものはかなり危険である。自民党の改憲提案内容にせよ、安保関連法にせよ、軍事費の大盤振る舞いにせよ、戦後から主張してきた平和主義路線を破壊しつつある。

 韓国に対する輸出規制の理由は、安全保障であるという。取引というものは、立場の異なる売り手と買い手が、取引成立をお互いに喜ぶのであるから、まさにコミュニケーションの優れた形である。カント(1724~1804)が「商業精神は戦争と両立できない」と指摘したのは卓見である。ところが、貿易すらもが安全保障という大義名分で破壊されるのだから、思想的には平和主義でなく排外主義・戦争路線であるといわねばならない。

 わが国の保守層は対欧米コンプレックスと、反面、それ以外に対する優越意識や差別意識が色濃い。遺憾至極である。差別意識は感情的なものであり、理性的ではない。これは、平和主義にも憲法思想にも反する。

 この間の議会運営がデモクラシーに背いていることは多くの人が気づいている。森友・加計問題から始まって、公文書偽造、統計のずさんな処理、議事録がきちんと残されない問題など、すべて未解決である。加えて今国会の特徴は、予算委員会審議をほとんどすっぽかした。

 これらの原因は一点に収束する。与党が巨大であって、野党の意見はことごとく無視されるということである。巨大与党の緩み・慢心が原因だとする説があるが、それは表面的である。もともと徒党の力だけに依拠している政党・政治家だからであって、デモクラシーに立っていない。

 英国のサー・E・コーク(1552~1634)は、国王ジェームズ1世が、裁判所を威圧し、自分が決定を下そうとしたとき、王に論争を挑んだ。そして「国王はなんぴとの下にも立たないが、神と法の下に立たなければならない」と締めくくった。これ、400年近く昔の話である。

 幼児が「ボクが一番」とわめくのは、未熟な子どもだから笑える。一国の首相の発言(の本質)だとすれば、国民としては笑えない。権力者というものはまともであれば、不寛容と傲慢の非難をうけないように気遣いするものである。権力のおぞましさを知らぬ人間が権力の座に就いてはならぬ。

 現代政治におけるさまざまの課題・難題は「ゴルディアスの結び目」みたいなものである。アレクサンドロス(前356~前323)は、複雑に組み上げられた結び目をほどかず剣で断ち切った。なるほど難題を一刀両断したのだから結び目はなくなった。しかし、即断即決として賞賛されるべきではない。

 人間界の問題は単純にいえばすべての人間が織りなす結び目である。ほどく努力をせず切断すれば、それは問題をさらに複雑にする。政治家にアレクサンドロス的なるものを期待するのは無知蒙昧である。

 粘り強く討論を続ける資質をもつ人を政治家に育てたい。