月刊ライフビジョン | 論 壇

世論をこそ耕したい

奧井禮喜

言論の府の崩壊

 「薄氷を履む思いで慎重に政権を運営する」――2013年の安倍氏による年頭所感である。とても殊勝な心がけだと、誰もが感じたであろうか。

 これは『詩経』の「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」を引用した。戦戦兢兢は、畏れ慎むこと。深い淵に臨めば、人は落ちることを畏れる、薄い氷を踏むときは割れることを畏れる。みずから身を慎んで事に当たらなければならない、の引用である。『論語』によれば、孔子は『詩経』全体を一言で表現すれば「思い邪(よこしま)なし」、つまり、全編の内容が純粋であると指摘した。

 言葉を引用するには全編の意味・文脈に沿っていなければならない。都合よく言葉を拝借してスピーチの体裁を整えることを断章取義という。かの年頭所感がそれで、遺憾千万ながら、その後の政権運営を見れば、ご立派な! フェイクであった。この間、人々は安倍氏をどのように見ているか。手元にある投稿から紹介する。

 「こんな答弁にならない言葉の羅列で、まともに答えない。国民をバカにし、侮っているとしか思えない」

 「行き当たりばったりの口先男、日本には立派な人も多い(はずで)、早く替わってほしい」

 「嘘が嘘を呼ぶ泥沼状態」

 「言葉に重みがない。他人の言葉を聞く気がないのか、理解する力がないのか。他者を説得する十分な根拠を示して発言していない」

 「頼んでもいないことを次々にしてくれる。したことに対して丁寧に説明しない。大衆は健忘症だと信じている。自分は絶対えらいと思い込んでいる」

 「見識のなさと倫理観のなさ」

 「知性のかけらも感じられない」

 「人的に、品格・品性が低い」

 安倍氏は2018年の年頭所感では、「声なき声に耳を傾ける」と語った。どこかで聞いた言葉である。「岸のおじいちゃんの膝の上で育てられた孫だから、こんなドラ孫になってしまった。われわれ70代は、心して孫教育をしなければならない」という声もある。「声なき声」は、1960年安保闘争の最中、追い詰められた岸信介首相の居直った発言だ。

 いやはやなんとも、薄氷を履むどころではないことが厳しく指摘されている。ここで指弾されているのは、言葉によって立つ政治家の言葉に信頼がおかれないという憤怒である。言葉の軽視が議会政治を崩壊させる。

権力政治の事情

 明治以来、わが国は曲がりなりにも立憲政治の道を歩んできたが、政党内閣が瓦解の音を立てたのは、1932年の「五・一五事件」であった。軍部青年将校らが、時の犬養毅首相を襲って暗殺した。

 当時、わが国政治においては確たる中心が存在しなかった。政府は、軍部・官僚・財閥・政党の極めて脆い寄せ集まりで、政治におけるリーダーシップが存在しない。そのなかで官僚集団が必然的に現実政治における力を発揮し始めていた。ただし、知能指数が高く功利主義の官僚は、軍部を担ぐか、政党を担ぐか、決めあぐねていた。

 政党内閣は、1936年の「二・二六事件」によって止めを刺された。陸軍皇道派青年将校らが率いる1500名の部隊が首相官邸などを襲撃して、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害した。戒厳令下、2月29日に鎮定された。しかしその後、軍部は統制派が主導権を握り、政治支配力を絶対的なものにした。クーデターは成功したのである。その成功がやがて国民を断崖絶壁へ連れて行った。

 いまはかつてのような軍部は存在しないし、政党政治の形はある。しかし、政党政治が健全である証拠は、議会での言論による丁々発止が盛んでなければならない。それが、前述の皆さんが痛烈批判するような事態にある。政党政治は、形はあれども中身なしである。

 政治において、言葉とは無関係に政治権力を握る人間の意志が突き進む。これが、いまの政党内閣の実体である。政党内閣は我が世の春だが、議会政治は中身がない。内閣が議会政治に対するクーデターを果たしたみたいである。

 このクーデターを支えているのは官僚体制である。政党が官僚を敵に回して潰えたのは、かの民主党政権であった。民主党が官僚と対峙したのは、的外れではなかった。戦後の政治改革で常に問題になったのは官僚が政治家の意志に十分に沿わなかったのである。しかし、政権担当能力が未熟で、一方、官僚の不信感を買ったものだから、民主党的改革は挫折した。

 民主党が以前の自民党と違った政治をおこなうためには、官僚を動かさねばならない。しかし、戦後ほぼ一貫して自民党を担いできた官僚にしてみれば、民主党的なるものは、にわかにはなじみにくい。

 なおかつ、上級官僚は決して戦後デモクラシーの推進者ではない。官僚体制は、占領軍の間接統治によって戦前のままに残った。敗戦までの官僚は国民に君臨したのである。戦後デモクラシーにおいては、今度は公僕(public servant)になった。官僚の地位は天地の違いがある。官僚が、一君に仕えて万民の上に立つのと、万民を上にいただくことの違いは極めて大きい。

 自民党の看板は自由と民主を掲げているが、中身は極めて怪しい。中曽根大勲位流で表現すれば、「国家に忠誠・国民に愛情」である。デモクラシーは、「国民に忠誠・国家に愛情」である。この意味のちがいは、国民諸兄がきっちり理解しておくべき命題である。ここに、自民党と高級官僚の相性のよさがある。

 大きくいえば、国家は国民である。しかし、国家と国民を区分して使う場合、国家とは主権を行使する行政を意味する。だから、官僚にとって行政の長である内閣総理大臣が、かつての一君に代って、目下の大君という次第だ。これを煎じ詰めれば、封建主義思想を色濃く残す自民党、官僚諸君は、「君に忠、親に孝」の精神である。保守政治家がやたら家族を強調するのは麗しい家族愛のためではなく、封建時代から続くお家第一主義の主張である。本丸は、主権在民のデモクラシーではなく、国家主義を宣揚したいのである。

 忖度が流行語になったが、君に忠であるから至極当たり前なのである。森友・加計問題などで、一糸乱れず! 忖度が貫かれた。これは当事者の立場で考えてみれば、おそらくはとても充実感に満ち満ちた所業であろう。政治に関わる者が身につけなければならないのは「責任」と「反省」である。反省は、とりわけ難しいことである。しかし、君に忠の責任を果たしたのであるから、何も反省する材料がない。反省するとすれば、露見するようなヘマをやらかしたことだけである。

 この流れにおいては、できるだけ公文書を残したりしない。統計をごまかす。論争の種になるような統計は出さない。やむを得ず提出しなければならない場合は、時間稼ぎして公表時期を延ばす。5年に一度の「年金財政検証」の公表を8月に延ばしたのは、政府に不都合だからである。

 これら一連の動向を眺めていると、すべてが政治権力支配者のご威光から発していることがわかる。仕事に限らず社会をまともに維持するためには、何をしなければならないか、何をしてはいけないかという規範があるが、これがすべて権力支配者の意志に左右されている。

 内閣によるクーデターが成功している。

社会権を認めていない自民党

 金融審議会の「高齢社会における資産形成・管理」報告書を担当大臣の麻生氏が受け取らないという騒動は、国民からすればお話にならない失態である。そもそも自民党の「100年安心年金」は、2004年以来のモメネタである。

 麻生氏いわく、「さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない。そのおカネが政府のおカネでやってもらっているなんて思うと、ますます寝覚めが悪い」。これは2013年1月の暴言で、本人が撤回した。個人の暴言で片付けられているが、実は、自民党諸君の本音である。自民党は基本的人権を主張する人を左翼だというし、生存権や社会保障に本気ではない。

 そもそも、「政府のおカネ」という認識がまちがいである。政府が社会保障の資金を都合してくれているわけがない。すべて国民のおカネである。また、巨額国債については、政府の国民に対する借金であるにも関わらず、国の借金だとしてごまかす。このような事例は、政治家が国民の公僕だという認識がないのであって、倒錯したエリート意識に支配されているのである。

 下衆な表現であるが、やくざが見かじめ料をせしめた相手に「ま、しっかり稼いでくれや」とほざくのとよく似ている。

 もっと大きな本質的問題は、現代政治における社会保障についてまったく理解していないことである。デモクラシーの憲法においては、自由権・参政権・社会権が柱である。社会権は、生存権(憲法第25条)、教育を受ける権利(同26条)、勤労権(同27条)、労働基本権(同28条)に記載されている。これは、資本主義の高度化にともなって生じた失業・貧困・労働条件の悪化から国民を守るために保障するのが目的である。つまり、福祉社会は社会権である。

 憲法第25条は、国民が健康で文化的な生活を営む権利を有すること。そして、国が、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めなければならないと規定している。

 欧州では19世紀末から、個人・家族的扶助から、相互扶助へと転換し、社会保障制度を構築した。わが国では、1874年から1932年まで、それに相当するものとしては「救恤規則」があった。これは、困窮者や罹災者に対して救い恵むという思想であった。前述の麻生発言は、140年も前の思想であり、このような人物が政府中枢で活躍している次第である。

 税と社会保障の一体改革がまるで進まないのは、麻生氏に代表される思想が自民党内部に浸透しているからだと考えるしかない。国の制度は誰のためにあるのか? 国民生活に貢献してこそ価値がある。制度が100年生き延びても、それが国民生活に十分な貢献をしないのであれば意味をなさない。

政治家の資質と世論

 いまの日本は衆愚政治の真っただ中にある。衆愚政治の衆愚政治たるゆえんは、人々が現実政治について考えを煩わさず、政治の外に立っていることにある。(皆さんが、いまの政治について考え納得しているのならば失礼をご容赦いただきたい)

 政治家の資質として、やってはならないことは、詭弁を弄すること、事実・論証の隠蔽をすること、嘘をつくことである。昔の政治が上質だったという気持ちは全くないが、いま、このような指摘をせざるをえない。

 今日ほど与党が議会を圧倒的に支配することはなかったから、政治家の気持ちはどうあれ、そこには一定の自己制御があった。高齢ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えるのとはちがう。ブレーキなど存在しないようだ。

 自分自身の意見を他者に押し付ける傾向は人間の感情に基づくが、感情を制御できない人間に権力をもたせるべきではない。反省しないのが、最近の政治家の特徴である。反省しない人間は傲慢であるか、または野蛮である。傲慢な人間は、自分が「無謬」だと考える。野蛮な人間は何も考えないで、自分の感情に基づいて行動するのみである。

 人間は、反省する力があるからこそ、今日の文化文明を築いてきた。反省しない政治家揃いでは政治の後退を避けられない。

 このように考えると、日本的衆愚政治の罠から抜け出すためには、政治家の資質を欠いている政治家を舞台から追放するしかない。

 「安定した政治」を求める声は多い。あるいは、「決める政治」という言葉が流行った時期もあった。それらの前提は、政治が期待する許容範囲になければならない。安定しているのは、巨大与党だからである。決めるのも同じである。しかし、その中身は期待の範囲にないと考える国民は少なくない。

 前回の参議院議員選挙でも、与野党の獲得投票は拮抗している。拮抗していても、議席に大差がつけば、今日のような不埒な事態を招く。野党のふがいなさを批判する声が強いが、議席に大差がついている状態では、対等に闘えないという事実を認めねばならない。

 世論が勝利するという意味はまちがってはいない。ところで人類の歴史を概観すると、世論が迫害されて、沈黙を余儀なくされた事例が圧倒している。自民党がメディアに対して飴と鞭で圧迫するのもその流れにある。しかし、長い目で見れば世論に背馳した権力は倒れる。

 衆愚政治を変える世論とは何か! 政治を考えず、政治に関わらせないための、理屈を求める弱さを克服しなければならない。たとえば、選挙で投票率が上がらないように期待する政党がある。自民党である。これが自民党の弱点を示している。人々が政治的知性を求めることが何よりも嫌いである。自民党は衆愚政治の政党だからである。

 宮崎安貞(1623~1696)は、江戸幕府時代の武士であったが、農業を振興するために40年かけて、九州・中国・近畿の古農業者を尋ねて回り、生涯の著作『農業全書』(1697)を作った。いまも十分に通用する大著である。実り多き農業の基本は、まず、土を耕すことである。いわく、「生養の道は耕作をもって始めとして根本とすべし」とした。

 政治の道も、世論を耕すことから始めるべきである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人