月刊ライフビジョン | 論 壇

漂い続ける日本的外交を憂うる

奧井禮喜

愛国と憂国

 自称愛国者は少なくないが、国を憂うる人は少ない。本当の愛国者とは、憂国の人ではなかろうか。その理由は、理屈で証明できる。

 人は誰でも自尊心を持っている。しかし、人生には好ましくない事情が次々に発生する。人生を生き抜くには耐力(めげない心)が必要である。耐力は日々の暮らしにおいて自分が育て維持するしかない。どなたさまも、口には出さずとも自尊心を維持するために善戦敢闘している。

 自力で自尊心を維持しにくくなった場合、自分とは別の何かに頼ろうとする。著者は忘れたが、戦時下でお先真っ暗の気持ちになり、何もかも嫌になったとき、たまたま道端の片隅にひっそりと小さな花が咲いているのを見つけて、気持ちを立て直したというコラムを読んだことがある。

 これはホッとさせられる話だが、頼るものを大義に求める人がいる。誰もが逆らいにくい大義に依拠するほうが気宇壮大になられるわけだ。人生をいかに生きるべきかに煩悶していた若者が、台頭してきたナチスに飛び込んだ。人生に煩悶する自由を放棄して、国家主義の大義に同化したのであった。

 1990年代以降、わが社会には常に逼塞した雰囲気が支配してきた。ネットで少数派に対する差別発言や、(いままで逆らいにくかった)リベラルの人々や考え方に対する暴言が増加した背景には、自力で自尊心を維持できなくなった人が増えたのではなかろうか。匿名で、直接的暴力をふるうのではないから尚更無責任発言が飛び交う。他者を罵倒する後味の悪さを意識しなければ、極めてお手軽な自尊心回復方法なのである。

 しかし、国を愛する気持ちで他国を罵倒する道筋には救いがない。満州事変(1931)以後、関東軍(中国に進出した日本陸軍)の虚偽発表をうのみにした新聞が、日本の正義を高唱する一方で相手を残虐非道の匪賊呼ばわりした。生活に恵まれていない人々のほうが好戦的・排外的であった。対米英(蘭)開戦に至るや、鬼畜米英である。ラジオから、米国は鬼畜で英国は悪魔だという放送が流れ、聞くに堪えずスイッチを切った。というような見識もあるが決定的に少数派であった。

 戦争は、関係国いずれにもそれなりの大義がある。戦争は外交の1つであるから、いずれかが殲滅するまでやるものではない。奥底では両者がつながっていなければならない。戦争する価値がある相手と戦うのであるから、戦いつつも相互の尊敬の念を確保しなければならない。上杉謙信が戦争しつつ、武田信玄に塩を贈った故事こそが、日本的戦争観であったはずだ。こちらのほうがよほど「理性的」戦争に思えてくる。

 つまり、なんでもかでも愛国すればよろしいのではない。常に、国が間違いのない道を歩むように、国家的理性を確立しておかなければならない。そのような国家を求める人を、わたしは憂国の人と言いたいのである。

追従と友好は違う

 こんな史実を思い出すと、国賓トランプ大統領に対するご接待は、恩讐を忘れるだけではなく、さらなる友好関係を深めたいための、麗しい超サービスというシナリオみたいである。しかし、本音は日米貿易交渉をお手柔らかにという懐柔作戦であろう。

 昔からわが社会においては、重大な交渉がゴルフ場やネオン街の紅い灯青い灯のもとで成立するというけれども、国を代表するトップ同士の交渉であるから、宴会接待方面が中心というのは、いかにも恰好が悪い。外国の方々に、まるで未開国流ではないかという見方をされても仕方がない。

 そもそも、トップ同士が宴会でするのは手打ちである。交渉事がどうなるのかわからない状態において、トップセールスよろしく接待漬けするのはおかしな話だ。常識的には、関係者間で日米貿易協議は着地点がすでに見えているのではないか。そこで、トランプ氏の「8月には非常によい結果が発表される」という発言の真意が納得できる。

 そうすると、この接待は、アメリカにとって非常によくて、日本にとってはよろしくない内容である。そこで、参議院選挙が終わるまでは発表しないという言質を獲得するための接待であったとも考えられる。

 まあ、いずれ時が来ればわかる。ただし、国民諸兄におかれては、日米貿易協議はありがたくない結果なのだという観測を踏まえて、参議院議員選挙に臨むほうがよろしい。

 日米同盟を掲げると、ほとんど思考停止するみたいであるが、日米貿易協議においても、世界の自由貿易体制を維持するために役割を果たさねばならない。それができず、アメリカファーストを受け入れるだけであれば、日本はアメリカの子分に過ぎない。さらなる日米の友好関係を深めるという美辞麗句を重ねても国民の納得性は得られない。仲良きことは美しきかなというが、それが対米追従であれば、憂国者のみならず愛国者諸君も辛いであろう。

元徴用工訴訟問題

 韓国の元徴用工訴訟に関する日本国内の論調をみよう。もっとも政府の認識に近い読売新聞社説(5/27)によって整理すると以下の通りである。

 1) 韓国文在寅政権は、みずから問題解決に取り組まず、日本との協議にも応じない。文政権は無責任である。

 2) 日本企業に賠償を命じた元徴用工訴訟に関し、河野外相が日韓請求権・経済協力協定に基づく仲裁委員会の設置に応ずるよう求めたが、康京和外相は明確な回答をしなかった。

 3) 訴訟の原告は韓国裁判所に日本企業の資産売却命令を申請している。企業に実害が出れば、両国の亀裂は決定的となろう。

 4) 日韓請求権協定は、完全かつ最終的解決を明記している。これには元徴用工の請求権が含まれているから日本企業の賠償は不当である。

 5) 文政権は三権分立を盾として、日本政府の要求に応じない。

 徴用工訴訟問題は、日韓基本条約(1965.12.18発効)と同時に締結された付随協約の1つである日韓請求権並びに経済協力協定に違反するとしている。日韓請求権協定で、韓国が日本から受け取った3億ドルの中に強制動員被害者補償金が含まれるという主張である。

 韓国大法院(最高裁判所)の判決は次の通りである。

 (日本側が主張するのは)行為の不法性を前提としない、サンフランシスコ条約第4条に基づく強制動員被害補償金であって、今回原告が訴えた反人道的不法行為に対する強制動員慰謝料請求権は、1965年の日韓請求権協定による補償の範囲外である。

 そこで主張されているのは、苛酷・危険な労働環境、外出規制による人権侵害、脱出の試みが発覚すると殴打するなど、反人道的不法行為に対して被った精神的苦痛が慰謝料請求の根拠である。強制動員被害者補償金ではなく、強制動員による慰謝料請求であるというのがポイントである。

日韓間の歴史的わだかまり

 戦後の日韓交渉は、1951年にGHQが斡旋して交渉を6回おこなったが進展しなかった。60年に学生革命で李承晩政権が倒れ、61年軍事クーデターが発生した。63年に民政移管し、軍人出身の朴正煕が大統領になる。米国は61年から日本に対して対韓援助を要請した。64年に米国は両国に圧力をかけて、日韓交渉を促した。韓国をベトナム戦争に介入させる条件として日本の協力を必要としたのである。

 65年にようやくまとまった日韓基本条約、経済協力協定で、日本は無償3億ドルと有償2億ドル(10年供与政府借款)を支払い、後さらに民間借款3億ドルを供与した。この際、李承晩ラインを撤廃し、竹島問題は棚上げ、在日韓国人の法的地位などが取り決められた。永住権は韓国籍のみであった。当時在日朝鮮人は65万人、韓国籍は37.5万人である。公営住宅居住権がないとか、弁護士などの資格が取られないなどの問題が残った。

 基本条約は、韓国は8月14日、日本は12月11日に批准されたが、韓国では売国外交無効の抗議運動が高まった。日本でも、ベトナム戦争へ韓国が介入することに対して抗議運動が起こった。せっかくの国交正常化条約であるが、両国ともにお祝い気分はさらさらなかった。

 日本が韓国に対して支払った3億ドルは賠償金ではなく経済協力である。しかも日本の生産物、役務によって支払われた。日本は賠償という言葉を極力嫌った。つまり、日本統治時代の不法を認めたくなかったのである。その結果、後に慰安婦問題や徴用工問題が飛び出す伏線になった。

 2015年12月18日、日韓が慰安婦問題で合意した。これは秘密交渉の結果であり、被害者たちの意見は集約されなかった。

 この内容は、韓国が財団を設立して、日本が資金を一括拠出する。両国政府が協力して被害者の名誉と尊厳を回復し、心の癒しのための事業をすることであった。そして、その措置が着実に実施された場合にのみ、最終不可逆的解決を確認するというものであったが、被害者の意見を集約せずに宣言したから問題が再燃してしまった。

 つまり、韓国からすれば、両国が宣言しても問題が再燃したのだから最終不可逆ではないということになる。片や日本は、最終不可逆を盾にとるというわけで、両国の溝が深まったままになった。

 文政権のアイデンティティーは「普通の人=市民」に視座を置き依拠する。とくに、文在寅氏は、韓国のデモクラシーがあまた市民・学生の血によって築かれてきたことを尊重すること人後に落ちない。1980年の光州民主化闘争の際、自分は納得できる活動ができなかった。これを深く悔いている。デモクラシーを発展させるためには、デモクラシーを積み重ねることしかないとも語っている。

 いかなる問題についても、デモクラシーとして妥当かを問い続けながら政治をおこなうという構えであり、これは、わが国の政治家と比較すると、まことに残念ながら大きく差がつけられている。

 日本政府は、「完全かつ最終的解決」を錦の御旗としているが、日韓基本条約締結にせよ、慰安婦問題のどさくさ紛れの宣言にせよ、表面的な政治的解決を重ねてきただけである。そのたびに韓国の人々の心情に傷をつけてきている史実は否定しがたい。韓国内の司法を無視することは文政権は断じてやらない。それは自滅行為だからである。

 その歴史的背景には、日韓の植民地支配以来の国民段階における和解が未成立なのである。また、日本国内では韓国・朝鮮人に対する差別が依然として色濃く残っている。もちろん、そのような発言・行動をするのは自称愛国者諸君であって、日本政府ではない。しかし、日本政府にアメリカに追従する態度と同じ姿勢があれば、とっくに日韓関係は未来志向に向かって走っていたはずである。日本外交の本質が対米外交のみだとは言いたくないが、日本外交から対米外交を差っ引いたら何が残るであろうか。わたしは、これを強く憂うる。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人