週刊RO通信

「寄り添う」という言葉

NO.1301

 わたしは、病床に臥す方のお見舞いが苦手だ。昔、長く入院している母を毎日訪れたが、容易に言葉が見つからない。ブスッとしているわけにはいかないから、何か話さなくてはいかんと焦ると尚更ぶっきらぼうになる。

 たまたま同室の年配女性を見舞いにこられた息子さんらしき方が、やさしく手をとって、会話しておられるのを盗み見して、ますます落ち込み、冷や汗が出た。まことに麗しい雰囲気であった。

 帰り道、もっとやさしい言葉で何とかできないのかと呟きつつ、しかし、こうも考えた。突然変身の演技などすれば、「何かあったのか?」と母に不信感を持たれるかもしれない。

 幼いころ、母と連れ立って外出し、母が知り合いに会った時など黙って頭を下げるくらい。母の後ろに回って隠れたかった。愛想ある表情をするどころか、こわばっていたに違いない。たかが挨拶ひとつまともにできない。

 作家の伊藤整(19051969)に「近代日本人の発想の諸形式」(1953)という評論がある。その中で、島崎藤村(18721943)の文体は、日本語の挨拶の表現を散文に生かしたものだという記述がある。

 他人に向かって理屈や権利、約束を話しまくるよりよりも、言葉少なく、遠慮がちに自分の顔を立ててほしいと言うほうが効果的である。論理や実証よりも、面目論や人格的圧力がものを言うのが日本的社会構造だとする。

 礼儀、挨拶の言葉、長上への服従のなかで自己を貫くものの言い方をすることが、藤村の生活における表現方法であった、と分析する。

 藤村『新生』(1918)は、自分の姪との不倫関係をモデルにした小説であった。兄は察していてカネをせびった。暴露されると社会的に破滅する。それに始末をつける目的をもって告白小説を新聞に発表した。それを読んだ芥川龍之介(18921927)は、「藤村のような偽善者はいない」と書いた。

 伊藤は、芥川のように論理歪曲を偽善と見る人間は日本の社会では生きがたいと指摘した。藤村が『新生』で取った態度が、エゴを貫くでもなく、論理そのものでもなく、古風な仕来りへの屈伏でもなく、「強力かつ曖昧で儀礼的な」思考方法、文体であるとした。

 つまり、ものごとをはっきりさせず、暗示的に表現して、強引に「自分のようなものでも生きたい」という主張につなぐやり方で、暗黙のうちに「わかってくれよ」という。挨拶的に惻隠の情に働きかけたというのである。なかなか難しい理屈ではあるが、「感性的」に、わかるような気がする。

 このところ、政治家らが「寄り添う」という言葉を頻発する。しかし、その実態は、言葉では沖縄の皆さんに寄り添うのであるが。辺野古工事は粛々としてガンガン進捗するという次第だ。

 こうなると、寄り添うとは無視する、突き放すと同義語である。発言の文脈上は成立しているけれども、実体はまるで異なる。言葉の意味が空洞化して、いや、まったく正反対なのであるが、事態は進んでいく。

 伊藤は、明治末期以来、次第に論理的に整理されて、知識階級のなかでは、「理屈」が通ることになったとも分析したが、果たしてそうであろうか。『近代日本人の——』が書かれた時がそのようであったとしても、それから66年後の今日を見ると、むしろ、世間では藤村流が花盛りみたいである。

 伊藤は、「日本人の認識は、社会生活を自我と他我が組み合わされて論理的に理想形を作ろうとする形での訓練に慣れていない」と指摘した。角を立てず、まあまあ、その場を丸く収める。時間がそれを解決するというわけだ。

 病臥お見舞いから話が飛躍してしまった。「寄り添う」ことは、本当に難しい。仮に善意で「寄り添う」と語っても、容易に寄り添えないのが現実だ。まして、寄り添う気がないのに「寄り添う」と語るのは日本的挨拶の悪用だ。そして、それが世間に通用するのであれば、われわれの意識は昔から何も変わっていないみたいである。

 選挙では「新しい時代を切り開く」という、素晴らしくも中身のない言葉だけが氾濫する。ラファルグ(18421911)は、「木の頭とロバの耳をした選挙民、道化師の身なりをした候補者」(『怠ける権利』)と嘲笑した。われわれはどこまで来たか、どこまで進めるか。