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『絹と明察』 三島由紀夫・近江絹糸争議・全共闘

奧井禮喜

 本田一成教授の『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議 絹とクミアイ』(新評論)が出版された。(以下『絹とクミアイ』とする)

 「三島由紀夫が書かなかった」というのは、三島が近江絹糸争議をモデルとして書いた『絹と明察』(1964)に、労働者が止むに止まれず立ち上がった近江絹糸争議が真正面から書かれていないからである。

 わたしは某誌に本田『絹とクミアイ』の書評を書く予定であるが、ここでは、書評ではなく、三島が『絹と明察』に書かなかった、作家の思想の断片を考えてみたい。

『絹と明察』の要旨

 舞台は1950年代半ばである。(近江絹糸をモデルにした)駒沢紡績社長の駒沢善次郎は、民主主義社会になっても、依然として、それも極端な家族主義経営を貫いている。他の経営者連が呆れるほどである。

 労働条件は当然ながら低い。監督署をして労働基準法破りの知能犯と言わせたほど、あっぱれなものだった。独身寮生に届く郵便物を舎監が開封して覗いては社長にご注進する。仏教の信仰を社員に押し付ける。経営は急ピッチで伸びて、大手10大紡績の一角に食い込む。典型的な「働かせてやる」の旧時代的経営である。それに異議申し立てするなど絶対に許さない専制政治である。

 この矛盾に気づいた大槻青年らが労働争議を起こす。当時「人権闘争」と言われた争議である。争議の背後には、駒沢紡績の躍進を心地よく思わない大手紡績の意を受けた岡野という策士が登場する。岡野は架空の人物である。

 労資せめぎ合いが続く中で、駒沢が急死する。

 小説であるから、若者の恋愛物語あり、駒沢と元芸者の舎監の関係あり、駒沢の病妻の屈折した心理描写もある。

 この小説は1964年度第6回毎日芸術賞(文学部分)を受けた。人気作家であったから注目度が高かったが、当時19歳のわたしは、ヘルマン・ヘッセの『知と愛』を、赤玉ポートワインを啜りつつ読んでいた。

作家と小説

 嘘をついてよいのは釣り師と小説家だ、と言ったのは開高健である。逃がした魚をいくら大きく吹いても怒られない。小説家は、おおいに嘘を書いて、自分が好むところの、ある真実を伝えられるか否かが勝負である。

 ルポルタージュではないから、真偽ないまぜの物語であっても、けしからんとは言えない。本田『絹とクミアイ』には、大槻青年のモデルの朝倉さんに三島が取材した際、争議のことはほとんど書かないと語ったと記されている。事前に義理堅く振舞った次第である。

 三島が描きたかったのは、「絹」と「明察」の葛藤である。絹は日本主義なるもので、明察は合理主義に基づく輸入もの思想である。小説だから、彼我の思想の激突論争が書かれるわけではない。ことは、極めて感性的に表現される。巷間、人権闘争と言われたが、人権とは何たるかについて論じたものでもない。

 当時、かくかくの評論家諸氏が『絹と明察』を評価している。人気作家三島の小説だという前提で好評を博したようにも思える。たとえば日本社会における思想の非論理性が深くえぐられているとは言えない。もっとも三島は、その非論理性を建前としているのだから仕方がないが、評論家諸氏がそれを十分に指摘したようではない。

 争議に関していうならば、争議が発生するまでの社員の精神状態は、自分が放り込まれた会社内秩序を至極当然として受容していた。だから、誰かに引っ張り込まれたにせよ、ストライキの一員として、さらには会社側が雇った暴力団と対決するような荒々しい事態に耐え抜くのは大変なことである。

 ここには「わたしを認めよ」という不退転の堅い決心がなければ話のつじつまが合わない。争議の場面は少なからず書かれているが、労働者1人ひとりの決心や息吹が十分に描かれているとは言えない。物足りない。

三島的思想

 本田『絹とクミアイ』には、取材の際、三島が朝倉さんに「日本中が毛嫌いした男を書きたいのです」と語ったとある。実際、近江絹糸争議は、会社側、とりわけ社長に世間の厳しい批判が集中したのである。

 三島はまた、あるインタビューで、滅びゆくものを書こうと思ったと語っている。これが鍵だと思う。すなわち、書きたかったのは駒沢社長こと、夏川嘉久次(1898~1959)である。それは、戦後民主主義の文脈において、滅びゆくものである。

 日本は湿度が高いから、すぐに黴臭くなる。しかし、三島流は黴臭くなって腐ったのではいけない。どこまでも、天下万民をことごとく敵に回したとしても、かの日本的なるものを掲げて、最後まで突っ走る。ドン・キホーテと嗤うなら嗤え、それを夏川に見立てて描きたかったのであろう。

 そもそも家族主義なるものはお家第一主義であって、封建思想そのものである。本当の親子関係のような愛情に基づかない。しかし、信ずる者は救われる。信じたままで生を終えた夏川は、まさに時代に逆走する滅びゆく存在である。

 知性は意志に従う。家族主義だろうが、日本主義だろうが、民主主義だろうが、知性が「メリトクラシー」(功利主義)と結託すれば、行きつくところは同じである。駒沢たる夏川は、功利主義の権化であるが、それを人情で包んで押し出した。方や、表面的に民主主義時代を受け入れた側は、合法的に可能な限りメリトクラシーを徹底させようとする。世間に疎いのと世間ずれしているのとの違いだけである。今日においても、中小企業の社長は「わしの会社だ」「わしが会社だ」という意識が濃厚に息づいている。

 『絹と明察』が書かれた当時の(大企業)職場を思い出す。さすがに人前では少数派だったが、「会社といえば親も同然、社員といえば子も同然」と口走る人が少なくなかった。各人が夢想する家族主義のもっとも麗しい面を想像して、会社主義の看板に塗り替えていたのである。いわば、日本全国に程度の差はあれ、近江絹糸的なるものがあった。

 実際の近江絹糸争議の1954年に時計を戻すと、わたしが所属した組合が一時金交渉でストライキを構えた際、親子論を引っ提げて「会社に弓を引くな」という主張が組合機関紙に堂々と登場していた。

 10年後の『絹と明察』の書かれた時代に、集団就職した女子寮生が活発化した組合青年婦人部の活動に参加するようになった。人事部が田舎の親に向けて「娘さんがピンクになりました」というような手紙を出していたことが露見して、組合が猛烈抗議したこともあった。これは天下の大企業の実話である。

 いまの方々はこれを笑い飛ばせるであろうか? 今年の賃上げで、人もうらやむ儲け頭大企業の労組幹部が「会社が潰れたら元も子もない」論を語ったらしい。三島流「絹」ではないかもしれないが、「明察」がいつの間にか「絹」になってしまっている。大昔、神話によって人々が啓蒙された。やがて近世になり神話を暴いて啓蒙時代が訪れた。そして、今度は、いつの間にか啓蒙自体が神話化しているという鋭い指摘もある。(『啓蒙の弁証法』)

 三島は確かに争議や労働者を主役として書いていないが、それを突き詰めて書くとすれば、『絹と明察』は、さらに倍以上の大作にならざるを得なかったに違いない。

 三島は文学論として、「生の原理・無倫理の原理・無責任の原理」の、3つの原理を掲げる。『絹と明察』は、まさしく3つの原理に基づいている。夏川という人物の生についてはよく描かれている。作家がそれを倫理的にどうのこうのとは書かない。作者の手から離れた小説が読者によっていかに評価されようが、作者は知ったことではない。作家と作品は「疎外」関係である。これは三島の嫌いな輸入品「明察」的な理屈であるが、彼はそれを認めているわけだ。

 生の原理は、状況に投企された人間の生きざまである。投企された人間が状況において、さらに自分を投企する。いうならば百万人といえどもわれ行かんの心地であろうが、これもまた輸入物の論理と重なる。自己組織性である。ひたすら状況に従っていた封建思想時代とは異なる。夏川が、四面楚歌においても我が道を行く、その生を描いたのであった。

 さらに、三島は人間としての行動の3つの原理を「死の原理・道徳の原理・責任の原理」とする。こちらについては、三島は実行した。夏川が「日本中が嫌う」ものであるとすれば、三島の場合は「日本中が嗤う」ものであったかもしれない。単純にいえば、自分の主張に責任をもち、主義と行動の合致をさせたのである。自分の美学に生き、そして死んだ。わたしは強い衝撃を食らった。

 『美と共同体と東大闘争』(角川文庫)という本がある。これは、学生運動が疾風怒濤であった1969年5月13日、三島と東大全共闘の学生が公開討論した内容を収録したものである。かみ合っていない討論だが面白い。

 討論において、デモクラシーという言葉は一度も出ない。体制に対して反抗する点において、客観的には、両者は極めて接近している。三島は、「筋や論理はどうでもいい、とにかく秩序が大事だというような態度は大嫌いだ」と言う。また「知識というものだけに力があり、それだけで人の上に君臨している(学者に対する批判)」ところの風潮も大嫌いである。学生が大学側の無力を引き出したことについて、三島は全面的に共感している。

 『絹と明察』との関係でみると、「わたしは過去を1つの連続性、歴史、伝統としてとらえ、現在を過去の最終的な成果としてとらえ、現在の一瞬への全力的な投入がそのまま過去の歴史と伝統との最終的な成果を保証するものだと考える」という言葉に、滅びゆくものへの愛着が強く押し出されている。

 学生は未来のために闘うというのだが、三島は現在がすべてであって、未来はないという立場である。死の美学というべきか。

 労働者が争議に(極論すれば)命を懸けていることには、だから、全面的に共感していたと思われる。ただし、三島が目指すのは伝統である。父親と子どもの関係において、子どもが父親に全力で当たっていくことには共感するが、その子どもはやがて父親の伝統を継がねばならないのである。

 『生涯にわたる阿修羅として 高橋和巳対話集』(徳間書店)(1970.12)に、高橋と三島の対話がある。その要点を記す。

 三島は言葉の大切さに強くこだわる。言語表現において「これしかない」というものにこだわる。ただし、それを行動するとなれば、言葉と行動の間には恐ろしい深淵がある。この深淵に飛び込んでいけるか、というのである。

 たとえば、権力者は権力をもった瞬間から腐敗する。その政治に対して倫理性を求めるのは政治音痴であると嘲笑する。言葉を刻むのであれば、同じように行為を刻めという。革命とはいわずとも、間違いなく反抗の論理である。

 権力者の悪辣に対して、お願いしても無意味である。自分を弱者・被害者の立場においてお願いするのはナンセンスだ。弱者のデモに力はない。三島の反抗の論理は、1960年代のアメリカで台頭した公民権運動と気脈相通ずるところがあるようにも見える。

 三島は言う。「時代の偽善や嘘の中で生きたくない。1つの偽善を暴けば、今度問われるのは自分だ」という、潔癖かつ、まことに鋭い指摘をしている。「他人の目の中の塵を認めて、わが目の中の梁を無視するな」という。

 近江絹糸争議は人権闘争だと呼ばれた。その人権意識は、おそらくは、労働者が闘う中から育てたのではなかろうか。親が子どもの人権を圧迫していても、子どもが未熟であれば、それに気づかない。生まれながらにして人権をもっていても、人権! と叫ぶだけで獲得できるものではない。

 争議は三島流の伝えたい真実なるものの背景として扱われているのであるが、決して「不逞の輩」扱いしてはいない。むしろ、巨大な会社秩序に対して、行動をもって異議申し立てをしている労働者に対するまなざしは共感・共鳴に近いように、わたしは感じる。

 わたしは深く研究していないけれども、三島的思想とは大きく異なる考え方をしている。しかし、矛盾に対して言葉と行動の合致をさせねばならないという厳しい指摘には共感・共鳴するしかない。いまの時代は、言葉に対する信頼感が大きく下降し、行動を生み出す力がない。われわれの切実な課題である。

 1960年代前後から70年代にかけて、組合では、マイホーム主義が批判され、「その日暮らし」主義に対する反省の声が、主として若者たちの間で少なくなかった。にもかかわらず、それを十分に育て得なかった。若者の1人であったわたしの悔しい反省である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人