週刊RO通信

祭りにならない選挙でいいのか

NO.1299

 統一地方選挙の後半が終わった。当事務所は私鉄と地下鉄の2つの駅前で、狭い歩道と車道があるだけ。たくさんの人が立ち止まる余白はほぼないが、終日通り過ぎる人が少なくないから選挙カーがひっきりなしにやって来る。

 資料を読みつつ、原稿を書きつつ、幕間狂言のような演説をしこたま聞かされた1週間であった。わたしは、なんども選挙活動をやったから候補者や運動員の気持ちは十分に知っている。しかし、感興を呼ぶことがなかった。

 夏目漱石(18671916)は「人を見るならその肺腑を見よ。スイカの善悪は叩いて知る。人の高下は胸裏の利刀をもって真っ二つに割って知れ」と書いた。1995年愛媛県松山中学教師時代に、生徒向けに書いた「愚見数則」の一節である。有権者たるもの、まずは候補者の人物を知らねばならない。

 演説の巧拙、その内容の価値の優劣もさることながら、候補者の本気、必死というものは、木の頭とロバの耳をしていなければ自然にわかる。

 報道では、「候補者は、高齢化、経済活性化、防災、地域コミュニティについて論戦した」と大きく括る。なるほど選挙公報をみれば、軒並みかくかくしかじかのキャッチコピーが連ねられている。

 しかしながら、それらの言葉、さらには美辞麗句が垂れ流されるだけという印象を拭い去れないのが遺憾である。皆様の声を政治へと主張する、そのものの言い方が人々の頭の上でカラ滑りしているわけだ。

 選挙は、少し大げさな表現をすればコミューンの表出である。日ごろ、仕事や生活の重たい慣性に沈んでいる意識が刺激される。踊るアホウと見るアホウ、同じアホウなら踊らにゃソンソンの気風が興せるかどうかである。

 コミューンの核心は自治である。中央集権下にあって、それを自由な自治組織に変える志向性を有する。住民自治の息吹を大きな風にするのが自治体選挙の本願である。

 政治的無関心にすべての責任をおっかぶせても何ら意味はない。候補者諸君が本当に政治家たらんとするならば、選挙の目的は自分が当選することにあるのではなく、政治的高揚=祭りを成功させなければならない。

 これは、主義主張や党派を超えた、政治を志す人々が共有しなければならない原則である。なんとなれば、政治に対して人々が無関心だということは政治家としてごはんが食べられないことなのだから。

 平塚らいてう(18861971)は、1920年から女性参政権運動に献身した。ときに34歳、遅くとも50歳になるころには大願成就するだろうと考えていた。しかし、女性参政権を獲得したのは1945年12月である。

 女性参政権を獲得したのは嬉しい。それは、敗戦によって突然実現した。らいてうは「他力的」に獲得したことについて、嬉しいけれども素直に喜べなかった。(『わたくしの歩いた道』)

 らいてうの、この「胸のつかえ」について、現代に生きるわたしたちは、落ち着いて時間をかけて性根を入れて考えるべきである。遅れて選挙権を獲得した女性だけでない。「猫に小判、日本人に選挙権」となってはいけない。

 選挙権、それを行使する選挙とは何か! わたしの主張を表明して、主張を共有する人々と連帯・連結することである。連帯・連結が実現するとき選挙という祭りはコミューン(の入り口)になる。

 かつて日本の封建社会においても、コミューンは登場した。1485年に立ち上がった「山城の国一揆」(京都府南部)は、農民が武士に対抗して8年間、コミューン(自治体制)を持続した。

 今様の「人権意識」などの理屈はない。農民が、ひたすら生きるための道筋を追い求めた結果が歴史に残っている。一揆の理由は真っ当に生きたいからであった。原因は武士たちの対立抗争で生活の場が蹴散らかされたからだ。

 選挙という原因があるから投票に参加するのではない。普通の人が真っ当に生きたいという理由によって、選挙を通じて意思表示するのである。そこから生まれる新たな状況が、新たな原因や理由を生むのである。

 わたしたちが生きるための進化は、動機と目的にかかっている。選挙という祭りの、わたしの動機(理由)と目的はいったい何だろうか。次の選挙をわたしが、わたしのためのものとするためにさらに考えよう。