週刊RO通信

本屋の息子の声を聞く

NO.1290

 父たる人は、フランスはアンジェの貧しい靴屋の4番目の子で、文字を知らなかった。20歳ごろシャルル10世の近衛連隊に入ったのを機に、ひたすら学んだ。4年後パリ7月革命(1830)で王が退位、路頭に放り出された。そこで書店の見習いになった。刻苦勉励して、36歳で自分の店を持った。

 2年後に生まれた彼の息子は、セーヌ河畔の古書露店が連なる町でラテン・ギリシャ文学を友として育つ。コレージュを卒業し、図書館の司書となり、傍ら文筆生活を開始する。『シルヴェスト・ボナールの罪』(1881)が出世作となった。1921年ノーベル賞作家となったアナトール・フランス(18441924)は、終生、父の努力の一生に感激し感謝し続けたという。

 アナトールの『エピクロスの園』(1895)の中に「ユダの運命」という作品がある。ノートルダムの第一助任司祭エジェールの話である。司祭は憐憫の情著しい信仰の人であった。簡単に話を縮める。

 キリストを銀30枚で売ったユダは地獄に堕ちた。しかし、司祭は考える。ユダは神の子の預言を成就させるために来た。もし、ユダの裏切りがなければ、キリスト教の玄義は成立せず、人類は救われなかったではないか。

 世界の救いのために働いたのに地獄に堕ちたということを考えると、司祭はいたたまれなかった。彼は、ユダの不幸な魂の罪の贖いには神も慈悲で関心を持っておられるだろう。ユダは地獄から救われるべきではなかろうか。

 眠られないある夜、司祭は――人気のない聖堂に入ると、常夜灯が深い闇の中に燃えていた。そこで、主聖壇の足元に跪いて、彼はこう祈った。

 神よ、慈悲と愛の神よ、あなたはあなたの弟子たちのうちの最も不幸な者をもあなたの栄光の中に迎え入れ給うたということが真実でしたら——ユダがあなたの右に座っているということが真実でしたら、彼が私のほうに降りてきて、あなたの慈悲の傑作を彼自ら私に告げてくれるようにと命じてくださいまし。――

 そしてユダにも呼びかけるのである。――1人で地獄を引き受けているかのように見えるがゆえに私が崇めるお前よ、裏切り者や忌まわしい者たちの罪を一身に負うている者よ、おお、ユダよ、私を慈悲と愛との司祭職に就けるために来たって私の頭に手を置いてくれ!

 この祈りを終えると、跪いていた司祭は頭の上に両手が置かれるのを感じた、あたかも叙品式の日に司教の両手が置かれるように。――

 信仰とまったく無縁であっても、司祭エジェールが深夜、誰にも気づかれないように聖堂に向かい、主聖壇に跪いて頭を垂れて一心に祈っている様子が想像できる。次が作品の末尾である。

 司祭は「ユダの命によって仁慈の司祭になりました」と告げ、伝道に出る。――彼の伝道は悲惨と狂気とに陥った。——この人は、カイン崇拝教徒の中でも最後の人であり、最もやさしい人であった。――

 カイン崇拝教徒は、キリスト教の異端思想であり、知恵と卓抜した人物としてユダを崇める。アナトールは別の作品で「博学なカイン崇拝教徒は推論もまた巧みであったが、彼らのモラルはおぞましい」と書いている。

 だから作家は、司祭の物語を信仰的共感性で描いているのではない。司祭の頭にユダの両手が置かれたのを奇跡として見ているのでもない。司祭がその切実な懊悩の果てに錯覚しただけなのかもしれないが、司祭が「最もやさしい人であった」と括るところに、アナトールは、「寛容」の精神こそが人間にもっとも大切だと言いたかったのだと推測する。

 社会通念としては「社会が無制限に寛容であるならば、寛容は不寛容な人々によって破壊される。だから寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に対して不寛容でなければならない」(1945 カール・ポパー)というのが、古今東西支配的であろう。しかし、権力や権威による秩序維持を前提する寛容とは、不寛容である。寛容の社会は誰もが参加する社会である。後にアナトールはアンガージュマン(意志的実践的社会参加)に身を置き、反権力・権威の立場に進む。その思索する人生の過程を見たように思う。

 不肖5歳か6歳か、父親に「本屋の丁稚になれ」とからかわれた。本屋の丁稚奉公をしていると、「考えろ!」という声をしばしば聞きます。