NO.1289
イブが蛇にそそのかされて、アダム共々リンゴを食べた。リンゴは分別や知恵であった。神が食べてはならぬと命じたことをなしたので2人は楽園を放逐された。人間は贖罪のために働く。キリスト教の労働観である。
J・ロック(1632~1704)は17世紀末に、「神は、アダムを日雇い労働者にした」と、なかなか気の利いた表現をしてくれた。
林達夫(1896~1984)は、これを展開して、学びつつ生きる人は「日雇い労働者の美学」(≒Journeyman’s aesthetics)でいくべきだと指摘した。ジャーニーマンとは、堅実な職人である。美学に裏付けられた働き方(学びつつ生きる)という概念には、気持ちをそそられる。
歴史的には、社会と労働、労働の価値について、W・ペティ(1623~1687)が、「土地が富の母であるごとく、労働は富の父であり、能動的原理である」(『租税・貢納論策』1662)と指摘した。彼は、古典派経済学の祖とされる。
J・ロックは「パンがドングリに比べて、ワインが水に比べて、毛織物や綿布が木の葉や苔に比べて価値が多い分は、すべて労働と勤勉(industry)とに負うのである」と指摘した。(『統治二論』1690)
続いてアダム・スミス(1723~1790)が、『諸国民の富』(1776)を著した。「自分自身の生活をよりよくしようとする各人の自然的努力は——極めて強力な原理なのであって、それさえあれば社会を富と繁栄に導くことができる」。これは、とても大切な指摘である。
『諸国民の富』は、人民と主権者を共に富ませることであり、労働こそが富の源泉であることを強く押し出した。前述のペティの場合は、君主の財政を富ませることに最大関心があったから、スミスは大きく踏み出した。
スミスは、(社会的)分業から、著述を展開した。みんなが豊かになるためには、生産諸力における最大の改善をめざすべきである。改善は、熟練・技巧・判断などであるが、分業によって、それがさらに前進する。人々の共労・協働が円満に成立すること自体が、社会の発展に通ずることを指摘した。
さらに、「商品の価値は、それによって購入し、または支配しうる労働量に等しい」とした。これは、支配労働説とされる考えである。
ついで、投下労働説が打ち出された。「人間労働は、あらゆる商品の交換価値の基礎をなす。それらを生産するには、労役と苦心(toil & trouble 骨折り)を必要とする。だから一定量の労働を含んでいる商品は、それと同量の労働を含む商品と交換される」。つまり、労働はすべてのものに対して、支払われた最初の価格である。
スミスは、自然や人間世界の合理的・科学的認識と、有神論の立場を調和させている。そこで、「神の見えざる手」(the invisible hand of God)、つまり、神による予定調和を前提した。
ゴッド・ハンドが機能するならば、すべては丸く収まるはずである。しかし、産業革命が進み、資本主義が本格化するにつれて、労働の価値どころか、働く人が極めて粗末かつ乱暴に扱われる状況が深まっていく。
F・エンゲルス(1820~1895)は、それを実態調査して『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)にまとめた。資本主義的秩序(無秩序)が、いかに労働者を悲惨な状態に貶めているか。また、当時の労働者が組織的な抵抗をおこないつつあることを指摘した。
K・マルクス(1818~1883)は『経済学・哲学草稿』(1844)で、「市民社会が私有財産と利己主義に基づいており、人間関係がモノの関係において規定される」ようになったことを指摘した。
「市民的自由と人間的自由は同じではない」という指摘は、格差・差別が大きな社会問題となっている今日を予言している。マルクス以後、盛んになった(労働)疎外論は、いま、研究対象として再検討されるべきである。
今回、雑駁に労働価値論の流れを記したのは、現在、世界的に共通している格差・差別問題と深くつながっていると考えるからである。
社会を担っている働く人々は働く生活を通して、わが国のみならず世界を見渡してほしい。「労働」についての哲学的考察を試みてほしい。
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