月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

東北人の生きざまを描く映画「先祖になる」

高井潔司

 数か月前に、友人でドキュメンタリー映画監督の池谷薫さんから、4月に神戸でご自身の監督作品の上映会を開くので、関西の知り合いにPRしてほしいというメールを受け取った。もちろん二つ返事で何人かの友人、知人に転送したが、私自身神戸生まれなので、わがふるさとで開かれる上映会なら久しぶりの帰省を兼ねてと、会場を訪ねた。
 池谷監督は来年神戸市内の大学の教員に正式に就任されるそうで、その記念も兼ねたか上映会だったので、私もお祝いにと駆け付けたのである。上映会は2日間にわたって兵庫県立美術館で開かれた。池谷監督の主な映画作品である「延安の娘」(2002年)、「蟻の兵隊」(2006年)、「先祖になる」(2013年)、「ルンタ」〈2015年〉が上映され、毎回約250席の会場は満員だった。
 ドキュメンタリー映画といっても、池谷作品は、取り置きの記録映像や再現映像などは使わず、同時進行でカメラを回していく、ある面「突撃取材」のような手法である。特に中国を舞台にし、文化大革命によって引き裂かれた父娘の再開を描いた「延安の娘」など、どうやって中国当局や本人たちの許可を得たのか、驚くような映像の連続である。娯楽映画ではないので一般の映画館での上映は限られるが、知る人ぞ知る作品となっている。いずれも国際的な賞を受賞し、その映像には毎回、圧倒される。
 といいながら、私も前二つの作品は何度も見ているのだが、後の二つは見ていない。今回の上映会は池谷映画鑑賞には絶好のチャンスだった。結論から先に言っておくと、二つの作品とも神戸まで足を伸ばした甲斐のある作品だった。とくに「先祖になる」は思わず涙まで出てしまうほど感銘を受けた。これは所属する大学の学生にも見せねばと、DVDも購入した。

 「先祖になる」という奇抜なタイトルの作品はどういう内容なのか。2011年3月11日の東日本大震災の大津波で47歳の長男を失った陸前高田市の77歳の老人が、半壊した自宅を再建し、そこから「山に旅立つ(あの世に行く)」という夢を、震災直後から語り、周囲の反対や心配の声をよそに、1年半後に実現したという実話である。映画はその過程を同時進行で追っかけた。
 老人の名前は佐藤直志。農業のかたわら「きこり」を兼業する。再建する自宅の木材も自ら切り出した。映画は、仮設住宅への避難を拒否し、半壊した家に住む直志一家の生活シーンから始まる。「俺は木こりだから、水さえあれば生活できる。息子の遺体が見つからないうちに仮設なんかに行くわけにはいかない」と語る。長男は消防団の副団長。いったん勤め先から避難して自宅に戻り、家族を高台に避難させた後、自身は地域の老人を誘導するため自宅から下の公民館に行き、避難させようとした老人とともに津波の犠牲になった。実は遺体は一週間後に発見された。直志がその後も仮設に移らないのは、同じ場所に自宅を再建し、生活を再建するという強い意志があったからだ。「だって先祖もずっとそうしてきたんだべ」と直志。「先祖になる」のタイトルはそこから来ている。
 映画は震災から39日目のシーンで始まる。直志は、「見てくれ。この家の柱は、大木ぁ波にやられても水平を保っている。柱は寸分も動いていないんだ。これが気仙(直志の住む地元)大工の仕事だ。余震の震度6の時も女房や嫁たちは震えていたが、俺は大丈夫だと言ったんだ」と、家や地元への愛情をにじみ出す。
 しかし、半壊した自宅の立っている場所はというと、住宅の2階まで津波が押し寄せた。実際、彼らが寝泊まりしているのは2階で、階段を上がると、硝子戸の下から40センチ当たりに泥の線が残っている。そこまで津波が来たのだ。だから残された本人、妻、嫁の3人が寝る簡易のベッドは、2階の床にビール瓶のケース9つを並べ、その上に板の台を載せて作ったものだ。
 津波がそこまで押し寄せたわけだから安全地域ではない。直志が家を建て直すという話を聞いて、若い市の職員がまだ安全地域の線引き中であり、計画を中止するよう説得に来る。しかし、直志や彼を支援する地元の菅野剛(1949年生まれ)は「一人でも復興に向けて立ち上がった市民を邪魔するのか。励ますのが行政だろう」と行政に食ってかかる。ただし、市の職員も地元の被災者でもある。
 「帰れ」と怒鳴る一方で、「こんな頑固者もいるんだ。お前らも頑張ってくれ」と、直志が職員の手を握りしめ、お互いの立場をわかり合おうとするシーンをカメラはしっかり追っている。
 地区の住民たちも引き気味だ。仮設住宅に移るか、別の地域に移住しまった。町内会もいつ復興して住民が戻ってくるのか見通しがない中で、積立金を分配して解散すべきだという声が出る。住民集会では、町内会の幹部たちが将来のために積立金は取っておこうと提案するが、住民は口々に「多くの住民は戻る気がない」、「再建の見通しはあるのか」と批判のトーンを上げる。そこで直志が立ち上がる。
 「ここで3、4万の金を頂戴して、あとは一切おさらばで、寂しくないかい。夢かもしれないが、俺はわが家を建てて1年でも2年でも住んで、そこから山に旅立ちする。80になろうという爺さんががんばろうというだから若い皆さんもパワーを発揮してもらいたい。よろしくお願いします」と、“再建宣言”を行ってしまった。
 それでも住民から「市の建築許可は出るのか」と批判の声が上がった。直志の奥さんも、映画の中で、「私は絶対反対。安心なところで余生を過ごしたい」と語り、実際、家の再建が始まると、夫と離れて仮設に移った。だが、直志は菅野とともに稲作やそば栽培のかたわら、住宅の材木の切り出しにも着手する。彼らは災害支援に頼らず、自給自足を心掛けていた。仮設に移る人にも、「支援に頼らず、働く気持ちを忘れるなよ」と声を掛けた。
 私が思わず涙を流したのは七夕祭りのシーンだった。地元、気仙町では毎年、三つの町内会が山車を作り、競い合って山車をぶつけ合う豪快な「けんか七夕」が恒例行事になっている。もちろん被災直後の年、例年通りというわけにはいかない。しかし、青年団約40人が集まり、直志らの指導を受けながら、1台の山車を完成させ、祭りを迎える。
 山車作りは、山から藤の太いつるや杉を切り出す。その作業に集まった青年団を見て、直志がつぶやく。「こんなに集まってくるのに、集落を解散するなんてあり得ない」。
 実際、祭りの当日には数百人の老若男女が集まり、山車は1台で喧嘩にならなかったが、山車を中心に綱引きして盛り上がった。祭りの後、青年団の代表が山車の上から感謝のあいさつをした。
 「皆さん、ありがとう。誰が見たってできっこないという状況の中で、それを覆し、見事やりました。だから思っていることをいわせてもらう。町内会は解散なんて言わないでけれ。青年部はあきらめていないんだよ。みんな気仙町からはなれたくないんだよ。みんなまた家を建てて、暮らしたいんだよ。一歩ずつ進んで、祭りを復活するぞ」
 怒鳴り声と涙声と交じり合った叫び声ともいえるあいさつに、参加者たちは涙をぬぐいながら「オッ」とこぶしを振り上げて応えた。直志の心意気が青年団の人々の心に乗り移っていた。
 その翌年、直志は本当に自宅の再建を実現した。池谷監督は「3年くらいかかかると思ったが、直志さんのおかげで映画も早く完成した」と舌を巻く。映画は、直志の夢だった、居間から太平洋上を登る朝日をみながらお茶をすするというシーンで終わった。

 以上、長々と、映画を紹介してしまった。それは、私の感想もさることながら、かの復興大臣の口の軽さと罪の重さを浮き彫りにしたかったからでもある。この映画の一シーンでも見ておれば、「自己責任」だの「東北で良かった」などという発言は出てこないはずだ。地元の人の心の叫びを聞いたことがないのだろう。登場人物は全て地元の人々であるこの映画は、津浪に襲われた人々の悲しみと、にもかかわらずそこから立ち上ろうとする意志、そこでの不安や悩み、だが互いの協力によって乗り越える姿が描かれている。
 上映会を含めて3度、この映画を見た。主人公は被災者、直志というより、人間、直志であり、厳しい自然環境の中で生き抜いてきた東北人の生きざまを見た思いがする。その意味では、復興大臣などどうでもいいことだった。


高井潔司 
桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授  1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て現職。