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不安でアパシーしてられない

ライフビジョン学会

――傍観者的目撃者から、推進者的目撃者へ――

 「世の中がどこへ向かっているのかよく見えない」。ひとことで言えば、これが昨今、誰でも抱く気持ちではないだろうか。
 新聞を開けば、世の中で起こっている「こと」は、直ちにけたたましく飛び込んでくる。直接無関係に思える情報でも、地球の反対側の出来事でも、見たくも聞きたくもない事件でも、とにもかくにもテンコ盛りである。妙な話だが、新聞休刊日にホッとして心地よろしくなったりする。
 遠く遠い1960年前後に開高健(1930~1989)は「新聞はボロ雑巾、テレビは淫乱・卑猥・雑音・騒音」とかなんとか、とにかく最大級の罵詈雑言を献呈した。まあ、この痛烈批判が今日昔語りになっていないばかりでなく、更にさらに増幅しているとしか思えないのがまことに残念至極である。
 そこで…、新聞など読まなければよろしい。読んでも、大方は直接関係ないのである。仮に税金が上げられそうだと知ったからといって、わたしが有効な対応策を出せるわけでもない。飲み代を月になんぼか減らすかなど、ちらちら考えてお仕舞。にもかかわらず、なにゆえ新聞を読むか?
 しばしば語られてきたのは、優越感を味わうためだとする心理学的分析である。新聞記事なんてものは、他人の不幸が満載されている。たまたま事件事故に巻き込まれた善男善女にしろ、悪事露見して後ろに手が回ってしまった悪漢にせよ、嘆息し、慙愧・後悔のホゾを噛み、辛く痛切な思いに直面している。人々がうんざりしつつも新聞を読み続けるのは、(心理学者や哲学者が上品に表現しているのを直截に表現すれば)「他人の不幸はわたしの幸せ」という、嫌らしい心理が――無意識のうちに――脳裏の奥底に蠢いているみたいなのだ。

 ところが昨今、「世の中がどこへ向かっているのか?」と不安になるのは、世の中なんてわたしの生活とは無関係だと思っていたにもかかわらず、このままでは、なにかとんでもない事態が発生するのではないのか! という心地がしているわけで――無意識のうちに――わたしが社会の1員であると認識しているのである。
 このような認識の対象となっている事態をカオス(chaos=裂け目あるいは混沌)というのである。そもそも古今東西、世の中はなにが起こるかわからない。なにが起こっても不思議はない。本来の理屈はこういうことだが、普段はあまりそのように考えていないだけなのである。
 震災の復興を率先垂範してがんばるはずの大臣が人々の気持ちを逆なでするような発言をして辞任(本質はクビ)した。なにしろ政府与党の提灯持ちに怠りない読売新聞が社説(4/27)で「職責を欠いた発言に唖然とした」と書いたほどだ。これが首相の気持ち(国民が怒って内閣の浮沈に影響する)を忖度したものではあることは間違いない。
 そして、緩みを排して態勢を建て直せと主張する。しかし、わたしが思うに、これは緩みなどではない。1強だからでもない。「自分党」ともいう自民党の本質中の核心なのである。すなわち、本音である(と考えるべきだ)。
 たとえば首相は、しばしば「国民に寄り添って」と修飾する。文章は修飾語から腐るのであるが、この修飾語は初めから腐っている。辺野古建設反対で大揺れの沖縄の人々には寄り添っていない。なぜか——首相の意に沿わないからである。すなわち、首相が「寄り添う」国民とは、首相に「寄り添ってくる」国民であって、いうならば、権力に逆らわず、権力に尻尾を振り、権力のトリクルダウン(trickle-down)を期待する諸君である。
 議会における政府答弁というものは、質問者の背後に常に国民の視線を意識して語らねばならない。しかし、低姿勢だったのは政権復帰した2、3か月のみであって、この間、――国民に対して――極めて傲慢無礼な答弁を首相自身が率先垂範している。質問者の発言を邪魔するし、野次まで飛ばすのは日常風景だ。品位も何もあったものではない。安定政権などと表現するが、わたしは、品位なき安定政権など国民的大恥だとしか思えない。
 誠実でないし、そもそも真っ当に答弁する本気がない。のらり、くらり、知らぬ、存ぜぬというのは昔から悪たれ政治家の常套手段であるが、その上に明らかに嘘をついている。居直っている。つまり、典型的な傍若無人ぶりを国会でさらけ出している。緩みを正すためには、なにか一本、柱が必要であるが、なにしろ柱がないのであるから、締め直すどころではない。
 というわけで、せっかくの読売社説はモグラの親分を放置して、次々頭を出すモグラを叩いて取り繕うだけであり、モグラを駆除することにはつながらない。読売社説は、これを十分に承知の上でお体裁を繕ったのに過ぎない。

 話を戻そう。政治家の傍若無人は影響力が大きいから、もちろん罪が重たいが、一般国民もまた、その矮小な力の範囲内において、やれる限りのことをやっている。年寄り的ブツブツを言えば、暴走自転車の交通ルール無視、街角の駐輪マナーの悪さ、歩きつつ携帯で大声の会話をする。小さなことといえば小さなことであるし、犯罪ではないとしても、そうした態度の本質には、自分が人々の中(社会)にいるという認識が欠落している。
 つまり、これまた傍若無人なのであって、「傍若無人の国民にして傍若無人の政治家をいただく」と表現するほうが、極めて話の筋道が通ると考える。
 普通の感覚であれば、この間、政府与党の数多やりたい放題の不祥事的不始末からして、内閣が倒れても不思議はない。ところが、内閣支持率が下がらず、自民党支持率も下がらない。その理由は、野党が不甲斐ない、代わりがいないから(しぶしぶ)消去法で選択した結果が意識調査の結果に出ているというのが、一般的な解釈である。わたしはそうは思わない。「傍若無人の国民の代表が傍若無人の政府与党である」と考える。
 戦後民主主義が国民をして、自分中心主義にしたというのが、自民党諸君のお得意の論法である。しかし、なんのことはない、自民党ならぬ自分党の自分たちこそが戦後民主主義において知的退廃を来たし、理性の堕落を危険なことだと考えないような政治を展開してきたわけだ。
 このような状態は極めて深刻である。もし、社会の大部分の人々が傍若無人タイプになってしまったら、その社会で、相互の「信頼」に基づいて、「安全・安心」な社会をめざし、「福祉」を充実させるとか…まあ、そんなことを期待するほうがおかしい。泥船に乗って、目的港へ辿りつけるわけがない。
 かくして、いま、人々が「世の中がどこへ向かっているか!」と、不安を感じる原因は、消去法で選択していること自体が間違っていると解釈されなければならないわけである。

 世間の動向を理解できない場合、転換期であるとか、過渡期であるという言葉を使う。要するに自分の経験則に照らして判断できないからである。しばしば、多くの人々がアパシー(apathy 無関心)の状態にあるという。なにが発生しようと、われ関せず。わたしはわたしの途を歩むというのである。
 ただし、アパシーを肯定する人々の脳裏には、これ以上悪くはなるまいという、はかない期待が存在する。あるいは、世間を傍若無人が支配しているからといって、わたしがそれを治してやれるわけでもない。わたしが非力を感じて、お手上げ(=give up)しているのがアパシーの側面である。ところが、昨今はアパシーしていたいのだけれども、どうも不安で落ち着かないのである。
 いわばアパシーしていることが、自分党の連中をはびこらせ、世の中を不安方向へ着々歩ませている。アパシーの最大効能は、煩わしい世間から超脱して生活し、精神的安定を獲得することであったが、どっこい、ノンキに構えていては剣呑ではないか。これがいまの日本的意識状況だと考える次第である。
 世の中が困った方向に歩むのは、当然困った事態である。しかし、もし、人々がアパシーでぬるま湯精神していてはあかんと気づかれるのであれば、それは間違いなく社会(精神)の前進である。満更捨てたものではない。

 ところで、人々の不安が募る理由の1つは、新聞情報が明晰・判明ではないからである。とかく、新聞は事件・騒動の「こと」に関しては可能な限り派手に書くが、「こと」の背後に隠れている真実に接近する努力をしているかどうかはかなり疑わしい。サボっているというのではない。記事を書くのは人であり、取材をするには膨大な手間暇が必要である。だから、どうしても記事の内容が上滑りになりやすい。
 そこから、できるだけいろいろな情報源で事実を確認するべしという理屈になるが、日々の仕事に追いつ追われつしている人々が、徹底的にそのような作業をするのは大変である。そこで、最低限、新聞などの情報を読み取るための心構えを考えておきたい。
 いかなる問題を考えるにせよ、「問題設定をするというmatter(問題)」がある。報道は、表面化したこと、つまり「どのように(how)」おこなわれたかが中心となりやすい。しかし、もっとも大事であるのは、「なぜ(why)」であり、「何が(what)」である。たとえば、解説記事や社説などは、「こと」の羅列ではなく、「こと」が意味している真実に挑まなければならない。
 政治でいうならば、政治家連中の失言・暴言を単なる緩みとして片付けるのではなく、彼らの本質を文脈的に探らねばならない。大きくいえば、自民党の本質は、ひたすら権力獲得にある。権力獲得して何がしたいのかというと、public servant(公僕)としての政治家たるのではなく、国民を自分たちの意のままに操作したいのである。自民党の自由と民主は本質を隠す厚化粧に他ならず、public servantではなく敗戦までの「お上」に戻りたいのである。

 自民党の憲法改正案が、デモクラシーを前進させるどころか、戦前の憲法へ戻したい意図が露骨である。これだけの資料が公開されているにもかかわらず、大新聞が本気でデモクラシーの危機を認識しているように見えない。
 権力が「表現の自由」を大切にしていないなどと、新聞がぼやく必要はない。それがあっても堂々たる権力批判(チェック)の視点で書かないのであれば、問題は新聞の自主規制にこそある。
 わが新聞は、欧米のポピュリズムについて書くが、わが国の政治こそ、反デモクラシーのポピュリズムが大きな顔をしているではないか。たとえば、北朝鮮に関して「対話と制裁」論を政府が言うとおりに書く。しかし、実際にやっていることは「挑発と制裁」に過ぎない。いったいわが政府がいかなる対話戦略を展開しているのか、記者会見で質問すらしていないのではないか。かつて大本営発表を鵜呑みし、拡大拡散した事実を新聞は反省したはずであった。昨今の記事が、そうではないと確信を以て語られるか。
 トランプと金正恩という酷似したキャラクターが何をなすかわからない。対話が少なく、情報が少ない。対話への活路が開かれなければ、カオスの次はカタストロフィー(catastrophe 大惨事)を招いても不思議はない。
 わたしたちは内外に剣呑な政治家が蠢く時代に暮らしている。世の中の現状に対して、わたしは無関係な目撃者ではない。世の中は大きな網の目であるが、わたしは網の目の1人としての目撃者であり、推進者である。権力なるもののオゾマシサを頭に叩き込んで生きていかねばならない。(奥井禮喜 記)