月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

ボーっと生きてんじゃねーよ

高井潔司

ボーっと生きているわけにはいかないご時勢

 年末恒例の「流行語大賞」のトップテンに、NHKバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」の「ボーっと生きてんじゃねーよ」が選ばれた。これは私たち教員にとってありがたい。何せ、セクハラ(セクシュアルハラスメント)、アカハラ(アカデミックハラスメント)とうるさいご時勢。教室で「ボーっと生きてんじゃねーよ」なんて叫んだら、たちまち通報され、問題化しかねない。でも、思わずそう叫びたくなるようなシーンがわが研究室ではしばしば発生する。そういう時に、「君、そんなことを言っていたら、チコちゃんに叱られるよ」と受け流すことができる便利な言葉だ。とはいえ、今どきの学生でNHKの番組を見ている人は少ない。大賞の候補になってやっと説明抜きで使うことができた。以下、「ボーっと生きてんじゃねーよ」と叫びたくなるシーンのいくつかを紹介しよう。

その1

 「戦場ジャーナリストの安田純平さんが解放されたが、自己責任論で批判されている。先生はどう考えるか」。「安田さん本人も言っているように戦場に行くのは自己責任といえるでしょう。でも、その報道を受ける側として、自己責任だと突き放すことができるだろうか。政府を含めどの勢力も自己正当化のために『見せない戦争』を繰り広げる中、危険を冒し戦争の真実を伝えようとしてくれるジャーナリストに敬意を表すべきではないのか」。「でも、なぜ母親を悲しませてまでそんな危険なところに行くんでしょう?」。(まあ君はせいぜい親孝行をしていなさい。母親だって、戦争がいやだ。なぜそんな戦争が起きたのか、戦場はどうなっているのか、心配なはず。お母さんに代わって知らせる人も必要なんだよ。ねぇ、チコちゃん)。

その2

 「ニュースはスマホで見れば十分。新聞なんて難しいし、かさばるから、電車の中で読んでいる人もいない。環境破壊につながるし、必要ない。必要なのはせいぜいネットのできない高齢者くらいでしょう」。「でも君がみるネット上のニュースサイトのほとんどの記事は、新聞社や通信社が発信したものだし、新聞のデジタル版もある。このまま新聞社が無くなると、ニュースを取材して発信する人がいなくなる。ニュースサイトが転載するニュースがなくなってしまうかも」。「だったら、ニュースサイトが取材して発信したらいい。」。(そりゃそうだが、なぜ取材組織を持たないのか、なぜできないのかを調べ、考えるのが学問、勉強というものだ! チコちゃんそうだよね)。

その3

 「インターネットは膨大な情報量が蓄積され、誰もが簡単にアクセスでき、それを活用して世界に向けて様々な発信ができる開かれた空間と見られてきたが、ビッグデータを解析できる技術が発展して、個人の検索履歴、購買履歴などから、それぞれの人が求めている情報を個別に発信できるようになった。その結果、個々の利用者は自分の好みの情報のみを受け取ることになり、フィルターによって濾された情報の泡(バブル)のなかに閉じ込められることになる。これがフィルターバブルという現象だ。その結果、多様な情報に触れて、自身の考えを振り返り、より充実させるという機会を失うことになる。アメリカの選挙ではこの機能を巧みに使って選挙戦を有利に展開し、政治の分断化も進行している」。「でも自分の好きな情報を収集して届けてくれたら、それはとてもありがたい。便利な仕組みだと思う」。(懲りない人だね。チコちゃんどうする?)

その4

 「新聞はネットと違って、取材組織を持ち、社会の出来事、現象を監視する『環境監視機能』を持ち、取材した情報の中から、みんなが知るべき情報を選別し、ニュースとして発信する『議題設定機能』を果たす。その上で、問題をどう考え、社会的な合意にどう導くかの『世論形成機能』を持つ。それらの機能に合わせて自身の報道に関して説明責任も問われる」。「それは新聞社による世論に対する洗脳ではないのか」。「そうかもしれないね。確かに情報行動には洗脳という側面が伴う。それは新聞だけでなくネットも含めて言えることだ。だから、自由で、多様である必要があるし、説明責任も果たさなければならないが、読者、視聴者、ネット利用者も多様な情報に接する必要がある」。「でも新聞の洗脳って怖いですね。中立なネットと違って、主観的ですから」。(新聞の洗脳が怖いというのも洗脳なんだよ。メディアとどう向き合あうか、利用者の側の主体性も問われているんだよ、ねぇチコちゃん)

その5

 「ベトナム戦争では、戦場にも記者が同行し、テレビを通して、戦場の現実がアメリカ国民に伝えられ、反戦運動が盛り上がった。ベトナム戦争以後、アメリカ政府はそれを教訓に、記者に見せない、従って国民にも見せない戦争を展開してきた。今日はNHKスペシャルの『ベトナム戦争の衝撃』を見てみよう」。「戦争の悲惨さが伝わるDVDでした。でもアメリカのような反戦運動はいまの日本では起きないでしょう。それから事前に残虐なシーンがあることを断る配慮をして欲しかった」。(確かに配慮も必要だろうが、そうした配慮が一方では見えない戦争にする口実に使われることもよく理解して欲しい。ねぇ、チコちゃん)

 もっともこういう反応をする学生は寝ているか、スマホを隠れて使っている学生で、授業を聞いていないのだ。多くの学生がそれなりに問題意識を膨らましてくれた。「新聞が文字ばっかりで真っ黒、手も汚れるとネットに書いてあったが、先生が一ページずつ開いて見せてくれた新聞には、カラーの写真やグラフ、イラストなど工夫がされていた」と反応する学生もいる。親の世代がすでに新聞を読んでいないので、新聞を触ったことのない学生も多い。「新聞」を「親聞」と誤記する学生の多いことに驚く。

 「『知りたい情報』、『興味のある情報』を読むのは当然だし、悪いことではないが、君たちは社会の一員として、『知りたくない情報』、『興味のない情報』であっても、知るべき情報があるんだよ。それを紙の新聞で読まなくてもいいけれど、そうした情報をしっかり取材してより信頼できる情報を届けてくれるメディアを社会で作っていかなくちゃいけない。ボーっと生きているわけにはいかないんだよ、ねぇチコちゃん」。

 君たちは、社会の一員として、知る義務も責任もある――と自覚を促すと、結構効果のあることが授業を通してわかった。自分たちは社会から取り残され、何もできないという無力感が支配しているのかも知れない。渇! が必要でしょうが、それもほとんどパワハラ発言に近いといわれるでしょうね。


高井潔司 桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て現職。