週刊RO通信

ナチ党的「宣伝(プロパガンダ)」

NO.1269

 プロパガンダ(propaganda)の語源は、ラテン語の「広める」という意味(propagare)である。ナチ党は宣伝を、嘘で固めた思想を主張・伝播するための統一的・計画的・秩序だった手続きであると規定して、実行した。

 ヒトラー(1889~1945)は1931年1月30日に首相になった。彼が党首となった21年から死亡する45年までのナチ党は、徹底的にプロパガンダを展開する徒党であった。よからぬことをたくらむ集団であった。

 ヒトラーは「宣伝は真の芸術だ」と語ったが、正しくは「真の宣伝は芸術だ」というべきである。彼とナチ党は宣伝を徹底的に悪用した。芸術というならば、精神と技術が混然一体化して美を生まなければならない。

 ナチ党は真正面から民主主義を攻撃した。宣伝相ゲッペルス(1897~1945)は、「民主主義は衆愚政治を持ち込む。議会政治とはバカを組織化することに他ならない」と公言した。さらに彼らは「人間の尊厳」を破壊した。

 ナチ党は、宣伝対象の人々を3つに区分していた。

① 批判力のないナチ信奉者

② ナチ同調者

③ 追従する大衆

 ヒトラーは個人を3通りに分けていた。

a (ナチ党が発する)情報のすべてを信ずる人

b 情報の何も信じない人

c 情報を自分の頭で考えて判断する人

 つまり宣伝対象は、①②③とaである。要するにナチ党を支持する人々だけが対象であった。頭にあるのは徒党力の強化のみである。

 ナチ党が宣伝対象の人々に求めるのは、「服従」のみであった。1人ひとりの存在する意味は服従するかぎりにおいてでしかない。個人の能力・資質・性格・理解度などに対してはまったく関心がない。人間性に関心がない。

 宣伝対象の人々の人間性を考慮しないだけでなく、党員についても同様であった。政党の強さは、党員1人ひとりの独立した知性にあるはずだが、ナチ党は、ひたすら忠誠心のみを要求した。諸手を挙げて追従する人しか認めない。精神的排他性こそがナチ党の特徴であった。

 服従のみに効果を絞った宣伝は、その性質上、疑いなく「暴力」である。実際、ナチ党は言葉だけでなく、暴力も駆使した。宣伝と暴力が混然一体していた。前述ヒトラーの気取った言葉を「宣伝は暴力の技術である」と言い換えるのが正しい。

 根底には決定的な人間蔑視のニヒリズムがある。ナチ党は大衆をどのように見ていたか。「大衆は理論的に納得するのではなく、アバウトにしか理解できない」。「大衆は理解するのが遅く、忘れるのは早い」という。

 ナチ党は人々を「偉大なる群衆」と呼んだ。ヒトラーは、「大衆はパンとサーカス以外は欲していない」とうそぶいた。人々が、なにがしかの理想を理解し、追求することはできないと断定していたのである。

 彼らを支持する群衆とは、服従するのみである。宣伝によって服従させられるのであれば、嘘でも、言い逃れでも、いかに非合理的であっても強引に押し出す作戦をとことん展開した。幹部には偏執狂が少なくなかった。

 ナチ党的宣伝が現実に示したのは、「信じられないほどの大きな嘘だけが効果を発揮する」ということである。権力を巡る厳しい抗争を前提とすれば、「嘘」なしではやっていけないという性根が露骨であった。

 言葉に価値があるのは、真実を伝え、交信(やりとり)し、交感(気持ちが通い合う)し、交歓(打ち解けて楽しむ)するからである。ナチ党が歴史に刻んだものは、まことに深刻な人間社会の破壊である。

 自民党総裁選最終局面で、安倍一派は秋葉原の公道を、動員した人々によって占拠した。いわば①②③、aを総動員したわけだ。

 かつて自民党は、その懐の深さを自画自賛した。しかるに、今回の総裁選では、安倍一派はナチ党の教科書そのままに活動を展開してみせた。真っ当な歴史認識がない政治家のおぞましさを、あますことなく見せた。

 自由民主党は、自由も民主も無視する連中に乗っ取られている。