週刊RO通信

誇大広告かつ頓珍漢法案は許さず

NO.1252

 最近は余り語られないが、昔は商品・サービスの誇大広告がしばしば世間の批判を浴びて、発信元が苦境に立ったことが少なくない。「売らんかな」の態度で、商品・サービスを実物以上に見せる広告は批判を浴びて当然である。

 法律によって誇大広告を規制する活動がおこなわれているが、日々の新聞広告をちらっと見ただけでも、法律の精神などほとんど無視されているような広告が多く、厳しくいえば世間には誇大広告が氾濫している。

 誇大広告だらけの世界で生きているわけだから、大方の人々は「本当か!」と立ち止まって考えるわけでもない。いつの間にか誇大広告的雰囲気が社会の日常生活を作り上げている。慣れてしまうのが一番よろしくない。

 さて、中国には「上に政策あれば下に対策あり」という極めて秀逸な諷刺がある。権力者が人々を政治的に統御しようとしても、そうは問屋が卸さない。庶民的知恵で法の網をかいくぐってやっちまうという次第である。

 しかしながら、庶民的知恵で法と勝負していくのは買うとしても、それが他の庶民に有形無形に迷惑・被害を掛けているというのでは、とてもじゃないが共感できない、と誰でも考えるであろう。

 まあ、そこいらのサプリメントかなんかであれば、本人が騙される覚悟? で購入するのであるし、信ずるものは救われるわけで、効能ありと信じている間は、問題は露見しない。

 また、自分の見識で購入して、信じているのである。本当にその商品の効果が出ているのかどうかを検査する人はいないから、何か有害な事態が発生しない限り、表面上は平穏無事である。

 いわゆる薬の効能がなくても、本人の気分でそれなりの効果が出る場合もある。騙されても騙されたと思わず、むしろ逆に、気分がよろしくなって日々の暮しに一条の光明が差し込めば、それはそれで結構だろう。

 さて、問題は「上に政策あれば」のご本尊の問題である。法や政策が、しかるべく高邁・深遠な審議を経て提出されるのであればよろしいが、たまたまその任にある連中の趣味でやられたらたまったものではない。

 なぜなら、実定法(定立された法)というものは、法自身が権威であると主張して憚らないからである。権威というものは、その人々の社会を律するのである。中途半端な内容で、どうでも解釈できるようなものではいけない。

 つまり法というものは、「どう行動すべきかは各自の判断ではない」のであって、「わたし(法)の言う通りにしなさい」というものである。このような理屈が成立する前提は、法による生活がよりよいものだという理屈である。

 これが「法の支配」(the rule of law)である。だから、法は、たとえば「わかりやすい」「はっきりしている」「矛盾がない」「安定している」などの要件をきちんと備えていなければならない。

 すでにおわかりのように、「働き方改革」関連法案なるものは前述の要件をほとんど満たしていない。このような粗雑な程度の悪い内容を法律として掲げようという政府・与党の意図には納得できない。

 この23日20時過ぎ小雨降る中、国会議事堂前をタクシーで通りかかった際、数十人(と思われた)が「働き方改革」関連法案決議反対の抗議活動をしておられた。疲れていたので降りなかったが「ありがとう」と呟いた。

 その数は極めて少なかったが、「働き方改革」関連法案に批判・反対する人は圧倒的多数だと、わたしは確信する。「働き方」なるものを根底から考えもせず、いわば一部財界の理屈で押し通そうとする悪法だ。

 改革(reformation)といい、革命(revolution)というが、いずれもその本質においては「大きな異変」を意味する言葉である。いま、つまらぬ審議している内容のどこが「改革」であるか!

 「1日8時間・1週40時間」は国際的常識である。これが世界第3位の経済大国で全然顧みられないことについて、政治家諸君はなんらの痛痒も感じないのであろうか?

 誇大広告法案というのも、まだ不十分な批判である。わたしは悪質詐偽法案だと主張する。さらにいう、真面目に働く国民に対して「働き方改革」を主張する資格があるような政府・与党であるか。出直せ!