月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

まやかしの働き方改革論議

高井潔司

 国会で、裁量労働の適用範囲の拡大などを柱とする、いわゆる“働き改革法案”が論議されている。労働問題は家元・奥井礼喜先生のお家芸だが、記者、大学教員と裁量労働歴約50年の私もその体験を踏まえて、ゲリラ的に論じてみたい。

 国会論議では、「裁量労働制で働く人の方が一般の人より労働時間が短い」という首相の発言の根拠となる厚生労働省のデータがずさんな調査に基づくものとわかり、野党はこの点に焦点をあてて追及姿勢を強めている。

 だが、私にはどうもこうした時間の裁量ばかりに重点を置いた論議に違和感を覚える。仕事量や質の問題が忘れられ、議論のすり替えに利用されているような気がしてならない。素人考えかもしれないが、「裁量」の「量」って、「時間量」なのか、「仕事量」なのか? それとも両方なのか? ――そんな疑問が沸く。仕事量が裁量の対象ではなく、従来と変わらず、時間だけ裁量だと言われても、裁量の余地がどこにあるというのだろう。もしあるとしたら、それまでダラダラ時間だけかけて仕事をしていたということになるではないか。今どきだらだら、のんびり仕事をさせてくれるような職場あるのだろうか? せいぜいお役所くらいといったら、お役所の方々もお怒りになるだろう。実際、住民票を取りに市役所に行っても、窓口の方々は以前に比べはるかにてきぱきと動いておられる。

 冬季五輪では、女子スケート団体パシュート、カーリングでの日本選手のチームワークの素晴らしさを見せつけられ、さすが日本は和の国、組織力の強さを世界からも賞賛されたと、マスコミは連日、大はしゃぎで伝えてくれた。そんな国に生まれて、仕事を中途半端にして、「私、裁量労働なんで、きょう帰らせてもらいます」なんて、仲間はずれの退勤などできますか? そんなことしたら、変人、奇人、職場で浮き上がり、退社に追い込まれるのが関の山だ。

 いや、そんな働き方をこそ、変えるのがアベノミクスの「働き方改革」だというのなら、大いに歓迎だが、いまのように仕事量を棚上げにして、お題目だけの、その心は超過勤務手当を削ろうというだけの、裁量労働制の適用拡大ではダメだろう。まず経営者の頭から根本的に変えなければだめだ。

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 私は記者と大学教員という裁量労働の中で生きてきた。いずれもある面、裁量労働とならざるを得ないと思わされてきた。記者の仕事も教員の仕事も、「これで本日の仕事は終わり」というきりがないからだ。少々、偉そうなことをいうと、これらの仕事は真実、真理の探究を目標にしている。しかし、真実、真理はこれだ、と言っても、それは人間のやっていることだから、その時点で得られた、より真実に近い情報、真理に近い仮説に過ぎない。真実や真理の探究にはきりがないのだ。

 ただ、新聞社には締め切り時間があるから、それに合わせてその時点での真実を報道できる。取材も原稿の推敲も締め切りがあるから、そこでひとまず仕事を打ち切ることができるのだ。締め切り時間が、無制限な労働から救ってくれる効果がある。

 教員の方は、研究と教育の両面があるが、研究は永遠に続く。自分の裁量でどこかで切らねば、もう1日24時間では収まらない。教育に関してもそうだろう。人間が相手であり、全人教育が必要だなどといったら、このあたりでもう十分でしょうときりを付けるわけにはいかない。24時間子供たちと向き合っていなければならない。幸い、大学教員は、大学での学びは半分以上学生自らの学びでなくては本当の教育にならない、などとうそぶいていられるから済む。だが小学校、中学校ではそうはいかない。土日返上で、教育にあたられる先生が多いし、文科省や地方の教育委員会がアリバイ証明のように管理を強化し、やたらと屋上屋を重ねる報告書などの作成を命じるので、いまやこれほどのブラック職場はないだろう。こういう実態を放置して、働き方改革なんてちゃんちゃらおかしい。それをまじめに伝えている新聞など、先生たちはどんな気持ちで読んでおられるのだろうか?

 私の記者時代、例えば東日本では、新聞は東京本社で印刷され、配送されるので、東京からの距離にあわせて、締め切り時間が異なり、青森など北東北地域は午後7時ごろ締め切りの7版、宮城、福島など南東北地域は午後9時ごろ締め切りの12版、埼玉、千葉など首都圏は午後11時ごろ締め切りの13版、そして東京都内は翌午前1時半締め切りの14版最終版に分かれていた。

 国際部のデスク(編集者)は、アジアから中東、ヨーロッパそしてアメリカから刻々と入ってくる特派員の原稿を、締め切りに合わせて手際よく編集し、多様な紙面を作るのが、その腕の見せ所となる。7版や12版の段階ではまだ、ヨーロッパやアメリカは朝或いは早朝、深夜でニュースはない。あってもそれは夕刊段階で報じられている。13、14版あたりには中東、ヨーロッパから原稿は入ってくるので、刻々紙面は変わっていく。

 社会部は私自身、警察(サツ)回りしか経験がないが、その経験でいうと、事件が無くても、夜10時まで担当の警察署内の記者クラブに詰めるか、その周辺で飲食をして待機していた。殺人事件などを管内に抱えると締め切り後の午前2時帰宅となる。もし超過勤務手当を支払っていたら、手当ては大変な額になるだろうが、確か本俸の50%程度の記者手当で打ち切られていたと記憶する。共同通信やNHKは組合が強く、裁量制ではなかった。あちらは超過勤務手当が青天井だと、羨ましがっていたものだが、NHKはかなりしっかり超過勤務を抑える措置を当時取っていたように思う。

 読売新聞で庶務担当をしていた先輩と飲むと、連合赤軍が1972年2月19日から10日間にわたって人質を取って立てこもったあさま山荘事件でのNHKのサポート体制が話題になる。極寒の中、記者たちは24時間の取材に追い込まれ、食事もままならない状況だった。庶務担当の先輩は何とか握り飯を調達して届けたものだが、極寒の中だから、当然冷や飯だ。ところがNHKはクッキングカーを仕向けてきたのだと、先輩は半ば批判口調で語る。

 だから、NHKで過労死と聞いて少し驚いた。しかし、以前とは状況が異なっているようだ。過労死した女性記者の母親は昨年11月に開かれたシンポジウムで、「娘は報道記者で、事業場外みなし労働制が適用されていたようで、職場の上司は娘の死後、『記者は時間管理ではなく、裁量労働で個人事業主のようなもの』と何度かおっしゃいました。こうした管理者の意識が、部下の社員の労働時間のチェックもコントロールもせず、無制限な長時間労働を許すことになり、また組織としても、社員の命と健康を守るため適切な労働時間管理を行うという責任と厳格なルールが欠けていました」と講演したという。NHKは締め切り時間がないから、始末に負えないのかもしれない。

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 私は大学の新聞学の授業で、いかに新聞社が最新の情報を、ニュースとして届けるために努力しているか、異なった締め切り時間に合わせ、紙面を更新しているかを講義している。その証明のために、新聞社の後輩に7版から14版まで新聞を提供してほしいと頼んだことがある。すると後輩は、「いまや各地に印刷工場が配置されたので、7版や12版地区が減り、13版が中心で、13版から14版の紙面更新はあまりやらないので、そんな講義には意味がありませんよ」と、あっさり断られた。

 となると、どうも先輩記者としては、「君たち、最新のニュースを伝えるという記者の使命を忘れているのではないか」と嫌味を言いたくなる。

 先輩や経営者がこんなことをいっているから、働き方改革は進まないのだろう。やはりわが国の風土は、働き方改革になじまないのか。根本から意識改革をしなくてはいけないのだ。安易な裁量労働制の導入は、無制限な労働の拡大につながるだろう。


高井潔司  桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て現職。