週刊RO通信

職場の荒廃=社会の荒廃

NO.1234

 職場が荒れている。顧みれば、先進的な弁護士のみなさんが「過労死110番」を立ち上げたのは1988年である。この着眼は発生する問題への対策に止まらず社会全体に対する大きな警鐘であった。

 しかし、その後はどうなったか? 1990年代になると年を追ってパワー・ハラスメント産業界を吹き荒れる。企業社会内部で、人間の尊厳=基本的人権を平気で無視するような気風が育ったのである。

 2013年にはブラック企業がメディアを賑わせない日がないくらいであった。データとして上がる膨大な個別の労働紛争が、荒れる職場を表現しているのは誰の目にも明明白白の事実である。

 大きな流れで見れば、1990年代初めに和製バブルが崩壊して、多くの企業が経営不振に陥り、人員整理が当然の如くに吹き荒れた。遺憾ながら、その状況において雇用を守るはずの労働組合が存在感を示し得なかった。

 敗戦後から、組合は飢餓賃金脱却を掲げて熱心に賃上げに取り組んだ。1980年代には飢餓賃金は遠い昔の話になったが、賃上げ=春闘=組合活動モデルに止まり、新しい活動分野への挑戦をやり得なかった。

 いわば賃金闘争に特化した組合活動が、組合員にとって飢餓賃金時代のように魅力を感じさせないのは当然である。加えて組合活動を牽引していた活動家の力が落ちて、組合内ではフリー・ライダーがメジャーとなった。

 いわく、組合無関心層の増大で、組合員の組合離れが定着した。飢餓賃金時代であれば、もしも人員整理が発生すれば、組合員が組合に駆け込むから組合活動は活性化しただろう。しかし組合離れは極めて深刻であった。

 執行部を含む組合活動家も、長く安逸をむさぼってきたから、いざ鎌倉の心の準備も理論的準備もない。しかも組合離れであるから、組合を通じて問題解決を図ろうという全体の気風が巻き起こらなかった。

 当時は雇用が社会的問題であったが、問題解決が個人的になされた。社会や組織におけるお互いの無関心は、結局「頼れる者は自分のみ」の精神的状態へと人々を押し流した。惻隠の情のない人々に連帯心は湧かない。

 一方、組合対面の人事(経営)も、長く対組合政策といえば賃金交渉であったから、人事の仕事の本懐たる――人を育てる――意識が以前に比べると格段に希薄化して、極論すれば賃金(コスト)管理屋になっていた。

 会社の「質・量」を形成するのは、間違いなく「人」である。人財などというが人は財ではない。人が、財などの価値を生むのである。価値を生む人を育て、そのような組織文化を作るのが人事の仕事の本懐のはずだ。

 人事管理が人事コスト管理に矮小化していた。本気で人を育てていたとすれば、人事マンがコスト・カッターといわれて自慢顔できるものではない。人事が経理や購買の下請け化していたというしかない。

 従業員(組合員)は、会社にも組合にも組織離れ=愛想尽かしをしていたわけだ。この会社で頑張ると決心している人が、軽々に会社を去る決断をするものではない。人員整理がすらすら進んだのは愛想尽かしのゆえだ。

 当時の経営陣が生き残りに必死であったのは理解する。しかし、会社が、人々の協働を獲得し育てていく運動体だという理念を認識していないから、長年営々として築いてきた組織文化を破壊してしまった。

 当社は「人を大事にする」というのは人道主義的表現ではない。人々の協働を獲得する。「知識・技能・技術」を育てようとする人を支持・支援する。以て「人が育つ⇒組織が育つ」ように、人を大事にするのである。

 職場が荒れている。成果主義導入も然りだ。組織文化(=協働)を崩壊させてしまったままだ。しかもいま、それが再建途上にあるとは到底考えられない。企業収益は、人々の協働活動の結果であることを忘れている。

 卵は外力で簡単に壊れる。一方、卵は自力で孵化して新たに成長する。これ、自己組織性の本質である。会社が荒れている。すなわち人事が壊れている。賃上げの数字で組織が活性化するのはガス欠寸前だからである。

 ぜひ、今春闘では、労使が真っ当な協働体を構築していく論議に着手してもらいたい。会社という世界で本気の協働心が湧かないようでは、社会の荒廃もまた確実に進む。労使関係者のご一考をお願いする。