週刊RO通信

日本人は「仕事熱心」をなぜやめたか!

NO.1232

 日経新聞(1/6)社説「いつの間にか『仕事熱心』をやめた日本人」を読んで、いささか思うことがあり、一文を草したい。——社説にいわく、

 ――「日本人は仕事熱心」という常識はもはや過去のものかもしれない。昨年のギャラップ調査国際比較では、日本では仕事に熱意をもって積極的に取り組んでいる従業員が全体の6%、調査139か国中132位である。仕事を指示通りに受け身にこなすだけではイノベーションが生まれない。――

 まず、日本人仕事熱心(勤勉)論なるものが、日本人の生来の気質によるものではないことを直視しなければならない。それは、勤勉に働くようにそれぞれの企業文化が構築された歴史から育ったのだ。

 もう少し噛み砕いていうと、敗戦までの日本人はサボタージュやら欠勤やらが決して少なくなかった。きつい仕事を二束三文の賃金で長時間やらされるのだから、監督の目がなければ手を抜くのは当たり前だ。

 敗戦までわが国は真っ当な人事管理思想がほとんどなかった。敗戦後、主として米国製人事管理論を輸入してなんとか定着させようと苦心惨憺した。ようやく大企業で恰好がついたのは1960年代だといってよい。

 自分の頭で考えず、指示されたことしかやらないというのは、すでに1980年前後、指示待ち族という言葉が登場していた。しかし、これは格別不思議ではない。仕事未熟であれば先輩に尋ねるしかない。

 また、もともと日本企業はムラ意識が強く、上意下達であるから、自力率先して挑戦するタイプは毛嫌いされやすい。画一主義・横並び主義・事大主義などは日本人的悪しき特質としてしばしば批判されていた。

 1990年代だったと思うが、近鉄電車で、なんらかのトラブル発生した場合、上司が問題児だとみている乗務員のほうが優等生よりも機敏・効果的に事案処理をやっているという話が日経新聞に出たこともある。

 「出る杭は打たれる」という気風はおそらくいまの大企業でも変わっていないだろう。過労で倒れるまで働き続ける文化は、昨日や今日の即席ではない。みんながやるから、わたしも付き合うという悪しき規範だ。

 仕事熱心が実は形だけで中身が伴っていないと考えねばならない。なんとなれば、外国からみれば驚き呆れるような長時間労働をやっているのに、現実にさしたる成果が上がっていないではないか。

 わたしに言わせれば、現下の長時間労働そのものが非熱心の現れである。全力で仕事を8時間もやればほとほと精根尽きるのが必然だ。ところが、10時間~11時間労働が通年続いている。これは、いったいなんだ?

 かかる長時間労働自体が熱心を模った面従腹背であって、仕事の中身よりも、仕事している形を維持することに精魂傾けていると言わねばならない。にもかかわらず政財官界は長時間労働撲滅どころか現状追認ではないか。

 過労はフラストレーションとなり、それが蓄積して肉体的・精神的異変をきたす。お気の毒にも過労死をされた方々や肉体的・精神的異変をきたした方々こそが熱心かつ積極的に頑張った報いを受けたと言うしかない。

 そもそも、いかに事大主義の日本人であろうとも、上からの命令は決して愉快ではない。人間である以上、自分が自分らしくありたいという気持ちを誰でももっている。つまり、命令は嫌われるものだ。

 ところが、日経新聞が書くように、指示待ち族しているのは、本気でない自分を演技するために最大のエネルギーを投入しているのである。バカな上司のパワハラに耐えねばならないのも悪しき企業文化のせいだ。

 まともな仕事をしたこともないような政治家が、事もあろうに、「働き方改革」を喧伝する。こんな薄っぺらが天下の国会でまかり通るような日本を考えると肌寒い。

 経営というものは命令すればよろしいのではない。最大の行動成果・経営成果をめざして、協力者を獲得する過程である。働く人は、その前に人間である。人間観を無視した経営と、その提灯をもつ新聞に知恵が出るものか。

 第二次大戦後、イギリスでは、働く人がhandからheadへ、そしてcaltureを育てるようにという社会的気風が盛り上がった。人間が育つ企業文化をめざさなければ日本の産業界の明日はない。