月刊ライフビジョン | 読書への誘い

「応仁の乱」 呉座雄一

木下親郎

❙「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」
❙ 呉座雄一
❙ 中公新書(2016年10月) 定価: \900(税抜き)


 2016年の年末に本書がいくつかの関西にある大学の生協図書部門の新書・文庫本のベストセラーの首位を占め,知人からの薦めも受けた。それから一年たっても中公新書のベストセラーに留まり,本書の帯広告には40万部を越すとある。その魅力にせまるため一年遅れで読んだ。

 「応仁の乱」は,応仁元年(1467年)に始まり,約10年にわたり,中心となった京都の街を焼き尽くしただけでなく,九州から関東地方にまで戦火が広がり,餓死する人が続出した内乱である。東軍と西軍に分かれて戦ったが,内紛や敵方への寝返りが多く,誰が誰と戦っているのか分かりにくい。乱の終わりも,豊臣と徳川との争いを決めた1600年の関ケ原の戦いや,源氏と平家の争いに決着をつけた1185年の長門壇之浦の戦いのようなはっきりとしたものがない。東軍を率いたのは銀閣寺を創った将軍足利義政で,金閣寺を創った将軍足利義満の孫である。銀閣寺は,歴史都市京都の代表的な建造物として残っている。「一休さん」と親しまれている「一休宗純」,画家「雪舟」,連歌師「宗祇」もこの時代の人である。全国的な戦乱の時代に優れた文化が咲き誇っているのも,「応仁の乱」を素人に理解しがたい歴史事件としている。ちなみに西軍の本陣となったのが現在の「西陣」の地名の由来である。

 著者は1980年生れの歴史学者で,京都にある国際日本文化研究センター助教である。「応仁の乱」の全貌を概観するには,入門書のみならず,多くの関連文書を読む必要があったが,著者は新書版一冊に凝縮してくれたので,読者にとって大助かりである。最新の研究成果を記しているが,当時の興福寺の最高責任者「別当」であった経覚(きょうかく)と尋尊(じんそん)が残した詳細な記録を軸として展開するので素直に納得できる。当時の興福寺は摂関家藤原氏の氏寺として格式が高く大勢力を持ち,春日大社もその管轄下にあった。奈良の南北の街が幾度となく焼き払われたのに興福寺を中心とした奈良の街が残されたのは両氏の巧みな政治力のたまものである。莫大な経費を必要とする,春日大社の遷宮神事も戦乱の中でもおこなわれている。

 本書を読みやすくしているのは,事件の順を追って書く編年形式である。多くの場所で発生している事柄を時間系列で記述するのは難しいが,著者は最大の努力を払っている。主要人物の系譜も最小限にしている。読者が注意しなければならないのは,抗争の地名が現在と同じであるが,現在の淀川,大和川などの河川や,主要道路が当時と大きく異なっていることである。桂川,宇治川,木津川などは合流して淀川になるが,当時はこれらの河川の合流点には巨椋池(おぐらいけ)という巨大な湿地帯があった。豊臣秀吉が巨椋池の干拓を命じて,現在は消え去った。大和川も流れが変えられた。著者はこれらの違いについても丁寧に説明をしている。なお,当時西国から京都へ入る重要な兵站路は,山陰から越前(福井県)へ海路を利用し,琵琶湖東岸を通る路線であった。

 著者は「応仁の乱」による歴史的な影響を「下剋上」と表現している。将軍家の執事にあたる「管領」は斯波氏,細川氏,畠山氏から選ばれていた。応仁の乱が始まると,周防(山口県)から大内氏が西軍の主力として上京し,末期には上杉,結城,京極,小笠原,島津,佐竹,朝倉,北条,今川,斎藤などが管領家をしのぐ勢力として表にでてくる。いわゆる戦国大名である。さらに一揆が頻発し,「足軽」が専門職としてあらわれたのも,下剋上である。

 新書一冊であるが,読むのにはかなりの腕力が必要である。関連文書の紹介,検索なども詳しい。京都のみならず,大阪市の東になる「河内」,奈良市の南の「大和」などに地縁のある人には特に興味をそそる一書である。


木下親郎
電機会社で先端技術製品のもの造りを担当した技術者。現在はその体験を人造りに生かすべく奮闘中