週刊RO通信

個人と社会

NO,1226

 昨今、わが渋谷付近の歩道はまことに歩きにくい。のほほんと油断していると、いつぶっ飛ばされるかわからないような心地がして、わたしは前後左右に注意し、背後の音を聞き逃さないように注意している。

 自戦車が音もなく忍び寄り、あるいはガタガタ轟いて脇を駆け抜けていく。3人乗り、重装備の戦車的自転車が非常に多くなった。わが生活圏ではこの数年、自転車事故で亡くなった方が数人ある。まさに自戦車というべし。

 自分の脚力だけではないからぶっ飛ばせるわけだ。ビニール屋根を装備して、お子さんの防寒対策をしているが、万一倒れたら自由が利かず余計に危ないのではないかと心配だ。

 自戦車部隊は殺気立っている。信号無視がまことに多く、反対車線を走っているとみるや、突然狭い歩道に割り込んでくる。歩行者優先なんて言葉はとっくに死語と化している。数度身体をこすられた体験がある。

 操縦が上手なお方ばかりではない。わたしが歩道に出るのは1日当たりせいぜい40分前後であるが、「危ない」と声を出さない日がない。それに、所構わず駐車なさるのも迷惑至極である。

 わたしは3人乗り自転車を許可するのは反対だったが、なにしろ少子化社会とて、主としてお母さん方の仕事と子育ての両立に、自転車は最早不可欠、生命線的インフラというわけである。

 なぜそんなに急いで無理しなければならないかというと、時間がないからだ。子どもの送り迎えを急いで片付けて、仕事も家事もやらねばならない。余裕がないのだから、年寄りがブツブツいえる筋合いではない。

 さて、少し前、UAゼンセン流通部門が「悪質クレーム対策(迷惑行為)アンケート」の結果を公表した。神さまのお客さまが神さまらしくなく、わがままさま・嫌がらせさまだという悲鳴的告発である。

 来客者から「迷惑行為」にぶつかった体験は73.9%(なし26.1%)である。暴言、なんどでも同じ内容を繰り返す、権威的(説教)態度、威嚇・脅迫、長時間拘束、セクハラ、金品要求——土下座強要なんてのもある。

 ストレスを感じている人は90%、強いストレスは53.2%。ガツンと反論などしないわけで、ひたすら謝る。迷惑行為は近年増えていると感じる人が49.9%という。

 思うにこれらの苦情が出されているお店は、いわゆる高級品店ではないから、お客さまも格別の神さまではないだろう。つまり、昔の下町商い的人情の交換がない。買う方も売る方も「ほのぼの」感がなくなってしまった。

 商い神といえば恵比須で、かつて多くの商人が商売繁盛の守護神として奉ったのである。恵比須顔という。お追従笑いではない、笑い飛ばすのでもない。にこにこ、ほんのり、売り手も買い手も「えべっさん」するのである。

 思い起こせば、1980年代後半の和製バブル時代。仕事先でタクシーに乗る。ご当地の皆さまを少しでも知りたい。タクシードライバーは話題豊富だ。10分も話せば大概は親近感が湧いて、率直にお話くださる。

 「最近のお客さまは威張っている人が増えました。カネ払うのだからもっと愛想せい、という感じですね」「道路が渋滞しているのに、もっと早くできんのか、と怒られますが——」

 当時は中流意識が90%といわれた。庶民の皆さまがそれぞれ、それなりのお大尽というわけだ。小ガネが使えるようになってよかったけれど、人がおカネに頭を下げると勘違いしてしまった。

 個人は、いろんな性質をもち、運命に漂い、気づかずして相互の人間関係や社会関係を作り上げている。いわば、個人的ささやかな日常生活が、社会の気風を作り、愉快にも、不愉快にもするのは間違いなかろう。

 わたしの尊敬するボスは「穂高の景色は1枚いちまいの葉が作っている」という言葉が好きだった。各個人への観点を遠くへ移動していくと、やがて個人が消えて「社会の姿」が浮かび上がる。

 紅葉の季節が終わった。いろいろ社会現象について理屈はつけられるけれど、わたしも1枚の葉として、人々を楽しませる穂高の景色の1つになりたいものだ。社会を意識しない個人が増える社会では寂しい。