週刊RO通信

庶民の眼光鋭くなれば政治は変わる

NO.1222

 まず、確認しておこう。自民党大勝利論は間違い。

 全国小選挙区で自公は2,733万票、立民・希望・共産・維新・社民・無所属の合計は2,784万票。全国比例区では自公2,552万票、立民・希望・共産・維新・社民は合計2,947万票。野党が上回る。

 だから、麻生「暴・失・妄」言居士が「北朝鮮のお陰で勝てた」と語ったのは、珍しく! 正しい? 認識を示したものだといえなくもない。

 さて――なぜ政治に対して人々が挙って関心を示し、もってさまざまな形で参加しようとしないのか?――の一端を考えてみたい。

 歴史として考えると、封建時代はもちろんのこと、敗戦まで、人々が目を光らせて政治に参加参画するなんてことは論外であった。権力者は「由らしむべし、知らしむべからず」であったし、人々にすれば政治の網の目にかからぬように、身を潜めることこそが政治的生き方であった。

 なんとなれば庶民にとって政治とはお上のご意向である。お上のご意向なんてものは、大概は厄介・難題であるから、封建時代から庶民は一貫して政治を敬遠したのである。いわく、さわらぬ神に祟りなしだ。

 しかし税金は納めねばならない。無数のわたしの税金がお国の役に立ち、やがて回り回ってわたしも豊かになるというのが理屈だが、なぜかうちには回ってこない。昔から、トリクルダウン効果は庶民には感じられない。

 税を納めるための苦心惨憺・悪戦苦闘の話は枚挙にいとまがない。軍部クーデターに対する庶民の同情や共感の背景だ。なにしろ、お国のためだと大上段に振りかざされて、反骨精神発揮できるほど逞しい個人は少ない。

 税金だけで事はすまない。もっとも厳しかったのが兵員としての動員で、召集令状が届けば、働き手がいなくなって家族が路頭に迷うとしても、遁走するわけにはいかない。昔の政治参加はお上の動員によるものだった。

 権力支配層が決めたことに、疑念を抱き、異議申し立てをするなどは反逆的行為である。言論の自由も、表現の自由もない。つまるところ、考える自由がないのと等しい。いま、想像するだけでも気持ちが重たくなる。

 いまはデモクラシーである。各人それぞれ、いろんな理由をもっているにせよ、政治を敬遠し、自分の殻に閉じこもろうとするのは、歴史的視点からすれば、敗戦までの政治を敬遠した人々の行動と同じである。

 政治に参加するといっても、古代ギリシャのデモクラシーではないから、全員が参加して意思決定しようというわけにはいかない。そこで、代表を選んで議会できっちり論議してもらう。ただし一任するのではない。

 議会こそが、国民を代表するのだから、三権分立において、国会を国権の最高機関とする。ただし、現実は内閣が勝手に解散をして議員のクビをちょん切るわけで、最高機関たるためには議員諸君が闘わねばならない。

 ところで、論議する大方の課題には算数のような正解がない。ために論者の知識・見識のみならず、本人の性質や趣味・嗜好、あるいは頓珍漢な思い込みなどが真っ当な論議を妨害する。これが小さな問題ではない。

 たとえば、安倍氏のように、自分の主張と異なる意見に聞く耳持たぬ性質は、本来、政治家・議員としての適格性を欠いている。わたしは、おそらく安倍氏は幼児性をしたたかに残しているのだと推測する。

 話を戻す。正解のない論議をするのではあるが、双方の主張を双方が理解し斟酌し、論議を噛み合わせる努力を積み重ねる結果、見解の違いは必ず接近する。これ以上は煮詰まらないところまで詰めるのが政治の技術である。

 こうした真摯・真剣な論議を重ねていると、論議する(=コミュニケーション)楽しさが湧き、当事者のみならず関係者全体が爽快感と信頼感に包まれていく。かくして、問題(content)解決のみならず、論議の過程(process)が議会の価値を内外に高めていく。これが上等な政治だ。

 (前述)自民党が多数を占めているといっても、民意は自民党的政治を全面的に許容していない。全議員が、常に民意を意識して論議に臨むべし。

 政治が変わらないのは政治家だけに期待しているからだ。ささやかであっても、国民1人ひとりが政治を厳しく見つめるようになれば、政治家が変わらざるをえない。政治を進歩させるのは、「わたし」である。