週刊RO通信

自分自身が政治家であること

NO.1219

 わたしは、民進党の前原代表選出にあたり、「民進党はデモクラシーの第一党をめざせ」(通信no.1214)と主張した。他でもない、大きくわが国政治をみれば、デモクラシーの後退が目を覆うばかりだからである。

 衆議院は9月28日解散、10月10日公示、22日投開票が決まり、選挙戦へ走り出した。劣勢が予測された民進党が自民一強に対決するために、解党も辞さず希望と合流する苦肉の奇策は理解できなくはなかった。

 民進党両院議員総会で前原氏は一筋に一強との対決を強調した。それは希望も同じであるが、小池氏は早くも自民党との連携を語る。仮に自民が減ってもすぐさま希望が穴を埋めるのであれば政治的にはなにも変わらない。

 というよりも、非自民党の野党連合戦線で臨むはずが、まさに敵は本能寺にありで、民進党解党こそが小池氏と前原氏の狙いであったか。「民進解党→希望へ合流→自民へ合流」、まさにホップ・ステップ・ジャンプである。

 小池商店においては、店主が箸の上げ下げまで決定しているようで、番頭さんの影も薄いし、どんぐりコロコロのオール丁稚というところ。前原氏がこれらを想定内というなら、ユダである。不誠実な政局屋だ。

 まあ、不幸中の幸いというべきか——早々、小池氏が本性を露呈してくれた。国籍はナショナリスト、本籍地は自民党、職業はポリチカル・マジシャン、趣味はお手玉(人を)というわけだ。

 選挙は策士でたいしたもの。都知事選では都政を伏魔殿と罵ったが、知事になったらブラックボックス化した。都議会自民党は崩壊したが、都民ファーストは存在感希薄だ。小池氏は政局屋ではあるが政治家であろうか。

 こうなると希望が果たす意義は、「安倍退陣」の1点しかない。安倍氏が退陣しても、自民党的保守政治は、むしろ絶対安泰に向かう可能性がある。ゆえに、小たりといえどもデモクラシーを掲げる野党に期待したい。

 この間、わたしたちはいろいろ学習したのではなかろうか。まず、アパシー(無関心)が増大する事情においては、専制的政治が支配しやすい。本人がいかに恰好つけても、アパシーには政治を浄化する力がない。

 二大政党とか、政見の受け皿論がしばしば顔を出すが、わたしは共感しない。国民1人ひとりさまざまな考え方があり、とても大括りに2つにできるとは思えない。むしろ、比較的自分の考え方に近い政党が存在してほしい。

 二大政党ができたとしても、両者の関係が慣れ合いになってしまえば意味はない。政局の安定が国民のための政治の安定になる保証はさらさらない。政局不安定のほうが職業政治家に居眠りさせず、勉強させるに違いない。

 とくに今日の自民党は、デモクラシー以前の国家主義体制に戻そうとしているのが明確であるから、常にそれに対して掣肘を加える勢力が必要である。そうでなければ、デモクラシーは名前だけになってしまう。

 憲法第9条問題に焦点が当たるが、自民党の改憲草案はデモクラシーをガタガタにする悪意の内容でしかない。デモクラシーにおける憲法改正とは、デモクラシーの改悪であってはならない。自民党の諸君は確信犯か。

 いまは、言葉が大事にされない政治が横行する。リベラルはデモクラシーに立脚する立場だが、自民党や小池氏はこれを批判的に使っている。ということは自分たちがデモクラットではないことを表明していることになる。

 リアルという言葉も奇妙な使われ方だ。現実をきちんと見ることをリアルというのであれば、現実が絶対でないこともリアルに見なければならない。もし、現実を絶対とするなら、もはや政治の出番はないではないか。

 ビスマルク(1815~1898)は、昔の政治家で専制政治家であるが、「政治は可能性の技術である」と語った。現実を絶対視している保守政治家諸君にはこの言葉の含意がわからないであろう。だから政局屋だというのである。

 政治は1つの事実である。事実が生まれるには原因があった。生まれた事実はなんらかの結果を生み、また新しい事実を生み出す原因になる。リアルに政治を分析するには原因・事実・結果を常に考えねばならない。

 政治の選択にベストはない。悪さ加減をじっくり分析し決断しなければならない。政治において、純粋な観衆は1人もいない。俳優であり、観衆である。時代の目撃者であり、推進者である。じっくり考えよう。