論 考

地金が出たのは正直か?

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 あぶく銭の意味は、正当な労働によらず、苦労しないで得たおカネである。悪銭身につかずという言葉もある。不正な所得は無駄に使ってしまうもので、結局は残らない。それにならって、今回選挙の自民党大勝は、あぶく銭ならぬあぶく票、悪票身につかずというべし。

 あるいは、カタログ選挙というべきか。お体裁のよろしいカタログ商品からお手軽に選んだ。しょぼくれたおじさん2人よりも、威勢のいい女剣劇の座頭が勝ったのは、まさにカタログ選挙の典型。役に立つか立たぬか、使ってみてのお楽しみというわけだ。張り込んで、お祝いカタログ配布というのは、恩返しならぬしっぺい返しで、切実な1票ではないからだと高市笑いが聞こえる。

 政党支部からの寄付は法に触れぬというが、支部からのものなら、送り主は支部名だろう。おカネは支部に出させて、ちゃっかり自分の名前にするのであれば、やはり高市の贈り物だし、そうでないなら一種の詐欺だ。政党支部のおカネも、政治資金と無関係ではない。支部の財布は一つだ。

 実のところ、わたしは少しも失望しない。これが自民党の本性だ。長年の習わしである。「高市さんなら何かやってくれそうだ」という声が多かった。まあ、最初にやってくれたのは相も変らぬ自民党的体質の開陳という次第だ。

 有権者の大きな期待を受けたのだから、世間常識としては、有権者が喜びそうなことを第一番にやると考えるが、そこが世間と自民党の違いである。仕事をする前に解散を仕掛け、してやったとぱかり、同志! にはお祝いを振る舞う。いい仕事をするのが目的であれば、とてもじゃないが、こんなバカなことをしている気持ちは湧かない。要は、仕事をするために選挙に勝とうとするのではなく、選挙に勝つために、やる気もない仕事の大風呂敷を広げたに過ぎない。

 自民党に代表される政界は昔ながらの村落共同体である。政治家、実は政治屋の目的はおカネである。政治をするために政治家になるのではなく、政治の世界でおカネを稼ぐために選挙に命を懸ける。これが政治屋である。

 政治屋たるものは、国民も天下国家も考えない。考えていないから、社会保障、税制がぐらついているにもかかわらず、それをしっかり立て直すための勉強をしない。選挙にかける力と同じ程度に国民・国家を考えれば少しは未来が明るくなろうが、一に選挙、二に選挙、三、四がなくて五に選挙なのである。いまだけ、これだけ、自分だけ――というのが自分党たる所以である。

 1990年代から日本はいつ沈没してもおかしくない事態にある。株が最高だとご満悦だが、なぜ、株が高くても経済の実力がないのか、高市は、「日本の底力を信ずる」の「輝く日本」のと空虚な言葉を並べるが、大事なことを見ていない。すなわち、日本はとっくに経済大国ではない。世界に輝く外交などと放言しても、日本の外交力なるものは経済だった。ところが経済はすでに二流以下、政治力はもともと弱い。しかも黄昏と旭光を勘違いしている。

 いかに威勢のよい言葉を連ねたところで実力や実行力が伴わないのだから現状を抜け出るわけがない。

 大学進学率が40%を超えているのに、なぜ社会全体の元気が出ないのか。これを考えるのが政治家の仕事である。教育といえば、つまみカネを出すことばかり考える。しかし、親も国も大金はたいて高い進学率でありながら、実力が伴わないのでは何をかいわんや。教育に確信が持てなくて、明るい未来などあるものか。

 永田町内の政治的駆け引きごときが続くかぎり、日本は絶対に浮上しない。日本を不沈空母と語った政治家がいたが、正しくは沈没寸前、船頭もいなければ推進力もない。日本に必要なのは、きれいごとの幻想をまき散らす政治家ではなく、苦いが真実を語る政治家でなければならない。