筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
公民権運動の指導者ジェシー・ジャクソン牧師が亡くなった。84歳。
同氏は1963年の公民権運動大高揚のときにも、マーチン・ルーサー・キング牧師(1929~1968)の常に盟友であった。トランプが、目の敵にして叩き潰そうとしているDEI(多様性・公平性・包括性)の、運動の根源を手繰れば黒人の公民権獲得要求運動にたどり着く。
わたしは当時18歳、高校を出て大企業に入社したばかりで、右を見ても左を見ても巨大な工場の構造物、機械類、広大さ、敷地内に1万人が朝来て夕刻帰っていく、寄せては返す人の波に圧倒されて、ろくにものを考える余裕など持ち合わせなかった。アメリカのニュースがテレビで即時報道されない時代であるが、キング牧師の大活躍をかすかに聞き及んでいた。キング牧師が凶弾に斃れて激しい衝撃を覚えた。本格的に事の次第を知るのはだいぶ後である。
組合運動にかかわるようになって、とつおいつ民主主義の勉強を重ねた。ベトナム戦争のさなかに、米国ウェスチングハウスのホワイトカラーユニオンのリーダー数人が来組した。たまたま懇談する機会を得たので、なぜベトナムで無慈悲な殺戮を繰り返している政府に反対しないのか問うた。軽蔑の表情で、「奴らはコミュニストだ」と応じた。問答無用の態度であった。わたしはそこに、人種差別的なニュアンスを強く感じた。
いまもアメリカには人種差別の頑固な思想が支配する人々が少なくない。それが暴力をもって現れる。公民権運動は、人種差別に抗議し、憲法が保障する権利の保護を求めた人々の非暴力の正々堂々たる挑戦である。
その対極がKKK(クー・クラックス・クラン)だ。すでに南北戦争後に結成された、白人至上主義者の秘密結社である。彼らは黒人を迫害し、第一次世界大戦以後はアメリカ的価値観擁護を掲げて、それに反対する人々に対してテロ・暴力行為を続けてきた。トランプの主張を見ると、KKKとなんら変わらない。それを大統領の名目で駆使するのだからとても正視できない。
1964年に公民権法が成立したが、60年以上すぎても運動の必要性は少なくなるどころか、さらに強大な相手と立ち向かわねばならない。ジャクソン牧師が代表する姿は、正義・平等・人権への揺るぎない献身である。わたしは、ここに政治家たる生き方の本質があると信ずる。
わが国では、空騒ぎのごとき選挙が終わった。政党(政治家)の盛衰というおまけつきだ。無礼な表現になるが、この選挙自体に、果たして政治家人生をかけるに値するほどの価値があったのだろうか。もっとも大事な「争点」なるものが、はじめから終わりまで一貫して存在しない。アスリートのごとく、「楽しみました」などと言えるものではあるまい。
政党(政治家)が理念で選ばれる時代ではない、という現状にふさわしい! 論評もある。なるほど、理念なき時代である。しかし、それではまことに情けない。いまほど、世界が混沌として、国際的外交関係が危険極まりない時期はない。こんな時代を理念なくして生き延びられると考えるのであろうか。
正しくいえば、理念を論じなければならないときに、まともな論争点するわからないままに、人々は清き一票を投じたのである。人気投票ごときがいったい何の役に立とうか。理念抜きにふらふらする日本の政治に期待できるものがあると考えるのは、シャボン玉を飛ばすごとき暇つぶしだ。
政治家たるもの、理念に生きてこそ本懐である。
