筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
「正しい現状認識」から
今回の衆議院解散は首相の解散権乱用で、民主主義を愚弄する暴挙である。ゆえに、今回の選挙の根本的な争点は、国民が、この暴挙を為す政権を許すか否かということであって欲しい、と私は考えた。
しかし、選挙戦は結局、減税ポピュリズムを軸とした政策(?)次元の争いになった。政治家の本音は、当選ラインの票獲得に直結する、有権者の損得勘定をあおることにみえる。とりわけ、道理や論理を超えた感情的な支持が増長していることが、大変心配である。
各党の政策は、有権者の関心の高い問題に対応する解決策とされている。しかし、それらの問題には、いずれも背景と要因がある。しかも、それらは単独の事象ではなく、相互のつながりを持っている。ならば、単一の対応関係にのみ執着して政策を講じても、この社会が抱える問題の本質的解決には至らない。
私たちが、考えなければならないことは、社会の問題は、どのような社会情勢を背景として生み出されているのかという「正しい現状認識」である。これが核心の問題であろう。「正しい現状認識」を起点とし、私たちにとってより望ましい社会とはどのようなものであるべきかを、見極めていかねばならない。
「正しい現状認識」に対峙せず、考えを深めなければ、それらに振り回されて、自分の人生を左右されてしまう。自分自身を生きるという、人間にとって最も大事なことを、見失っては元も子もない。
この社会が抱える問題の本質
私が思う、この社会が抱える本質的問題を述べてみたい。
ヘーゲルは、精神が自己を否定して自己にとって他者になる。それによって、人はさらなる前進をめざして成長する。と主張した。
しかし、わたしは思う。現実は、「人間が手段化され、人びとの人間存在自体を疎外した」。ために、「人間にとってより善い社会実現にむけた、人びとの主体性と責任、そして社会的連帯を消滅させた」と、表徴できるのではないだろうか。
資本主義経済社会は、本源的に、人間が、使用価値の創造・創出、また、その獲得により、より人間らしく生き得る社会を目指した暮らしと社会的営みの体系を、交換価値(一般に経済価値)を至上の目的とする社会に転換し、人間を手段化してしまった。
そのような社会ゆえ、人びとは交換価値創出に向けて編成され構造化された社会システムに、従属的に適合することを精神の習慣とし、行動することが生きることだと解する。その結果、人びとは、自己を喪失し、人間らしく生き得る社会の実現に向けてという本質的な理念において、主体として責任を負うという概念を消滅させ、そこから必然となる社会的連帯を失ってしまった。
飛躍があるかもしれないが、日々私たちが遭遇する社会的な問題事象は、この人間いかに生きるべきかの主体とその責任の欠落、ないしは、人びとの連帯が失われたことがもたらす問題だと感じることが多い。
そして、冒頭に述べた、大義無き衆議院解散の暴挙も、日本社会の本質的問題に対する提起も、次代に向けた社会ビジョン・構想もなく、政策次元の争いに終始する政治も、それを求める有権者の存在も、また、感情に任せた支持の増長も、その主体性と責任、そして連帯の消滅にあるのではないかと、私は思う。
社会の問題現象との関連
論理的に考えて多くの支持を集めるはずのない高市政権への熱狂、感情の政治というものをどう考えるべきか。
それは、人びとが、手段化されることにより、社会において、必要とされるという実感を伴った人間としての居場所を失い、そのことによる、所在なき不安や不満や怒りを、高市が繰り出す(お粗末な)虚構や幻想によって感情を高めて霧消させ、その快感と安堵に浸るという行為ではないだろうか。
つまり、日ごろ抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによっ消散させるというわけである。
差別や排外主義や、原理主義的ものの考え方、威勢ばかりの他国批判、敵対的外交の支持、自分自身の考えに反する者への誹謗中傷や暴力も、同根に思える。また、高市のような、我執に拘泥し、虚言を語りながら、他者を欺く手段と化す人物が生み出されることも、この社会が抱える問題の本質と、同根であろう。
どうするべきか
自分自身が、自分を生きるという人生の究極の目的、それは、言い換えれば人間にとって最も大切な「人間の尊厳」に帰着する。「人間の尊厳」を可能としていくために、私たちは、人間(自分)はいかに生きるべきかを考え、また、自分と不可分な社会のありようについて、考えを深めていかなければならない。
私たちは、当然ながら日々「学ぶ」ことが求められている。学ばずに生きることも可能であろう。ただし、それは、他者の手段とされ、他人を生きることに堕してしまう。マニュアル人間である。これではますます主体的思考ができない。
人間いかに生きるべきかという、人間の生の根源的動機に思い至るために、「学び」は必然である。「学び」から、私たちは、自分自身の生き方として、その実践の糸口をつかむ。自分が、そこに具体的に踏み出したとき、一人では成し得ないと思い至り、社会的連帯を必然とし、(人びとが)つながり、つながることで人間としての実存、自分らしい居場所を創り出していくであろう。そこには、人それぞれに、自分自身の持てるものを存分に発揮できるシチュエーションがあるからだ。
そのような人々の営為の総体が、社会的合意として内発的に形成されていき、人間にとってより善い次代が、創り出されていくように思う。
であるならば、「正しい現状認識」を、人びとと共有せず、政策次元の争いに終始することは、無意味、否、有害である。
私たちは、政治の役割とは、どうあるべきなのか、また、政治とは、本来、誰のものであるべきなのか、根本に帰って考え直さなければならない。
