NO.1652
至極当たり前であるが、言葉に裏表があるとか、二枚舌三枚舌であるとか、その場しのぎの巧みな言葉を使うような人物がまかり通るようになれば、世の中は乱れる。信用できないからである。人間が社会を維持できるのは、言葉に信頼がおけるからであり、言葉を大切にしない社会は、やがて破綻の途を辿ることになる。目下の選挙戦はどうなのだろうか? 一考を促したい。
わたしたちは民主主義制度のもとで生活している。しかし、民主主義制度といえども、デマゴーグ(扇動政治家)の跳梁を未然に防げない。それを拒絶するには「主権在民」、主権者としての人々の識見の高さ以外に頼るものはない。政治家がばらまく幻想や、限りなく嘘に近い発言を見抜くのは人々の確かな判断しかない。
昔、林語堂(1895~1976)は、「デモクラシーというがデモクレージーじゃないのかね」と憎い諧謔を飛ばした。トランプのアメリカを見るまでもなく然り、然りである。ものごとは組み立てるよりも崩す方が手っ取り早い。水は低きに流れるが、民主主義を低きに流すのは主権者としての識見が低いというべきだろう。
高市による大義なき解散、節操なき解散は、厳しくいえばウソつき解散であり、誠実さを欠く。「食料品消費税ゼロ2年」発言は、口にした直後から早くもごまかし発言が続いている。看板政策「責任ある積極財政」の「責任」が、放漫財政を塗り固めるための不誠実な言葉であることも隠しようがない。
政治家の言葉には本質を隠すものが少なくない。なにゆえか。なにがなんでも、選挙に勝てば官軍だからである。議会で多数を制すれば、公約したことでも無視できるし、公約していないことであっても突き進める。選ばれたらこっちのものさという手合いだ。
古今東西、ファシストは民衆の意識の古さ、懐旧の念をくすぐり、近代化の立ち遅れを美辞麗句で飾る。山青き故郷、水清き故郷が、昔はよかった、輝くニッポンへの情緒的いざないに転換する。若くして命を捨てさせられたのに神格化する。そして、あの戦争は正当であったとまで引っ張り込む。
1945年以降、日本人は民主主義社会をめざして歩いてきたはずであるが、封建的、専制的抑圧が制度的になくなっても、その制度において数百年にわたって人々の生活に沁み込んだ意識が消滅したのではない。その心情はしぶとく後世代にまとわりつく。ノスタルジアが政治的に悪用される素地である。
参政党が伸びた本質は、古き輝く日本へのノスタルジアが若い世代に引き継がれている。それが、ばかばかしくさえある現代的攘夷論として、かの党の馬力になっている。彼らは自分たちが見捨てられてきた存在(社会的被害者)のような主張をするのが特徴である。
高市自民党(厳密にいえば自民党内極右)は、参政党がノスタルジアをくすぐって伸長したことに便乗して、われこそがノスタルジアの本家だと主張し始めた。石破内閣が地味で慎重だったから、なおさら高市自民党の跳梁が目立つといえる。
見過ごせないのは、ノスタルジア世代は、支配者・権力者に対する依頼心が強い体質でもある。決断力がある、強いリーダーを熱烈に求める気風がそれだ。デマゴギーは民衆の気風に乗るのが巧みである。逆にいえば、民衆の弱みがデマゴギーの好餌である。食らいつかないわけがない。おまけに野党はボキャブラリー貧困だ。
民主主義の有権者はいかにあるべきだろうか。これはもちろん、一人ひとりが沈思黙考せねばならない。客観的に表現すれば、主権在民の真価は、選挙の専門家たる政治家の弁舌からは生まれない。本来政治家は主権者の信託をうけて忠実に行動するべき存在だからである。主権在民という言葉は重たい。その重厚さを発揮できるかどうか。民主主義はこつこつ積み上げる壮大な試みである。
