筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
1960年代の日本は、雑多・混沌の闇鍋で、鍋の中に何が入っているかわからない。たちの悪い奴がスリッパの切れ端を放り込んでも、それに当たれば運が悪かったというだけ、という感じもあった。しかし、とにかく元気溌剌というべきか、上品に表現すれば、少々のことでは誰もへこたれない気風が満ちていた。
少々生意気な青年たちは、ニヒリズムを気取っているのが少なくなかったが、奇妙にも、彼らはここ一番には、実に真っ当な判断と行動をやってのけた。それがあったからこそ、ダメな政治にもかかわらず、高度経済成長に成功した。たとえば、恵まれない人々を意図的に差別して気炎を上げるなんてことはやらない。
いま、特別結構な処遇をされているわけでもないのに、外国人労働者を悪口の対象として罵倒する。誰でも自分の国を離れて他国でメシを食いたいとは思わない。まして、政情不安、経済ガタガタの国からやむを得ず来日して働いて暮らしている人たちを追い出そうとするがごときは、恥ずかしくてたまらない。
選挙で票を取るために、いわば社会的に弱い立場の人たちを槍玉に上げる連中に共感共鳴・付和雷同するなど、モラル外である。日ごろの生活の不平不満が積もり積もっているとしても、それを煽る連中の人間性がわからないのだろうか。しかも、高市自民党は、それに便乗するスタンスである。恥を知らぬ連中に政治家たる資格はあり得ない。
こんなことで選挙の帰趨が決まるならば、それから始まる政治に期待できないのは当然である。
衆愚政治(ochlocracy)という言葉がある。大衆というよりモッブ(群衆)は、方向性も政策、ただあてどなくさ迷う。その場限りの気分で浮動する。それを利用してやろうという連中も当然ながらふわふわと漂うのみで、政治はどんどん堕落する。ここには民主政治の香りは皆無である。
差別を振り回す「信念」は、偏見の産物である。偏見とは、本質的に反社会的である。偏見が支配する社会の秩序は必ず崩れる。社会秩序が崩れるとどうなるか。SNSでは面白がりの材料かもしれないが、人々の日常生活が維持できなくなる。世界中の秩序が乱れた国を1つ垣間見るだけでも、秩序が崩壊するとそれを回復させるのは異常な努力を必要とする。だから、泥沼から抜け出せない。
大衆が、大衆ならぬ群衆で、その群衆が選択した政治が光り輝くものであるわけはない。きれいごとはいくらでも話せる。ホラと嘘も吹き放題だ。ここ一番、誰もが真剣真摯に考えねばならない時がいまである。
